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今も続く大問題「パレスチナ問題」って一体何?わかりやすく解説!

アラブ人の反乱

1936年。増加するユダヤ人に危機感を抱いたアラブ人が遂に反乱を起こし本格的にユダヤ人の排斥を行い始めることになります。

これを受けてイギリスは「もうここまで来たら分割するしかない」としてパレスチナをアラブ国家と小さなユダヤ国家と中心地であるエルサレムを国際地域に分割する提案を行いました。しかしアラブ側の指導者はこの提案を拒絶。さらにユダヤ人の入植を拒否するようになるとこれにユダヤ人は反抗するようになり対立は余計に激化することになります。

そして時代は第二次世界大戦に突入。第二次世界大戦ではヒトラーによるホロコーストが行われていき、200万以上のユダヤ人が犠牲になる事態を招くことになりました。戦後このホロコーストから逃げ延びたユダヤ人はユダヤ人国家をパレスチナの地に建国することを強く願うようになっていき、そしてユダヤ人国家を建てる目的の暴動も起こっていくようになるのでした。

パレスチナ分割

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第二次世界大戦後ヨーロッパにおけるナチス=ドイツのホロコーストが明らかにされると、

これまで差別されていたユダヤ人への同情が集まっていきパレスチナへのユダヤ人入植とパユダヤ人国家の建設は国際的な支援を受けるようになりました。

しかし、これに対してアラブ人は猛反発。アメリカはこれを受けて十万人のユダヤ人をパレスチナに送ることを承認するとユダヤ人によるパレスチナ国家建設の流れはエスカレートしていき、また過激派によるテロ行為も頻発していくようになりました。

イギリスはこれ以上パレスチナを支配することはできないとして1947年にパレスチナの支配を終了することを発表。パレスチナの動向は国連によって決めていくことにしていき、ユダヤ人国家とアラブ人国家を並列して作ることになるのでした。

1947年に国連はアラブ人とユダヤ人の国家を分割して成立するパレスチナ分割案を提示。

国連ではユダヤ人に対して水資源が豊富な農耕などに向いている場所を与えたのに対して、アラブ人に対しては砂漠地帯の不毛な土地しか与えられず、パレスチナ分割案の内容は明らかにユダヤ人に有利なものとなっていました。

このパレスチナ分割決議は最終的に国連総会の投票で決められることになり、アラブ人が統治している中東諸国の13か国が反対。しかしアメリカとソ連を含めた西洋諸国33か国が賛成したことによりパレスチナ分割案は可決となりました。

この結果パレスチナの地域のうちパレスチナの全人口197万人中の約3分の1の60万人にすぎないユダヤ人にパレスチナの56.5%を与えることになりパレスチナは分割されることになるのでした。

アラブ人の大反乱と第一次中東戦争

これに対してアラブ諸国は大反発。決議の翌日からパレスチナはアラブ人によるユダヤ人への焼き討ちや襲撃が多発し、それに対してユダヤ人が反発。内戦状態のような状態となり、アラブ連盟はパレスチナ分割を武力で阻止すると声明しました。

これに対してユダヤ人たちはパレスチナの56%を分割案によって認められた土地にてイスラエルの建設宣言を1948年5月に行いイスラエルが正式に建国。アメリカはそれをすぐに承認します。

そしてついにアラブ諸国の堪忍袋の緒が切れパレスチナは内戦状態に突入。中東諸国からパレスチナのアラブ人たちを助けるために義勇兵として各国から集まりアラブ解放軍が結成。

イスラエルの独立宣言が行われたのと同時に、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトの五か国イスラエルに宣戦布告。一次中東戦争が始まりました。

アラブ連合軍は独立した直後だったため武器を全く持っていなかったユダヤ人の部隊を次々と打ち破っていきイスラエルを制圧しようと考えます。しかし国連の調停によって4週間の停戦に突入。イスラエルは滅亡一歩手前で救われる形となりました。

イスラエルの初代首相であるベングリオンはばらばらとなっていたイスラエルの軍隊を一つにまとめてイスラエル国防軍を編成。

さらには第二次世界大戦で作られて余っていた武器を大量に購入して行くように。その資金はユダヤ人の資産家によるものでした。

そしてかつて銃も足らなかったイスラエル国防軍は戦車を大量に擁する大軍隊へ変わっていったのでした。

こうなったらイスラエルは止まりません。イスラエルは停戦期限が終わるその日に猛反撃を行い始めアラブ連合軍を圧倒。さらには停戦をさせようとしたフォルケ・ベルドナッテを暗殺し、パレスチナのほとんどを支配することに。これには世界世論も黙っておらず、イギリスが仲介に入って講和が締結。現在でもお馴染みなあの国境線に落ち着くことになるのでした。

第二次中東戦争と第三次中東戦争

1956年10月、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言をしたことにより、中東情勢は再びややこしくなっていきます。もともとスエズ運河を保有していたイギリスはエジプトと敵対していたイスラエルと手を組み再びアラブ諸国に侵攻を開始。第二次中東戦争が起こることになります。

この戦争はイスラエルの優勢に始まりましたが、イスラエルがイギリスと手を結んだことが面白くないアメリカとソ連が介入したことによって停戦。イギリスとフランスの中東の支配権が完全に喪失することになりました。

これに自信をつけたナセル大統領は国際世論を味方につけてイスラエルを威圧。主だった支援を受けられなくなったイスラエルはエジプトを奇襲して6日間でシナイ半島を制圧。第3次中東戦争によってイスラエルはパレスチナ全域とシナイ半島を手に入れることに成功したのです。

しかし、その一方で元々パレスチナに住んでいたアラブ人は難民にならざるおえなくなっており、いわゆるパレスチナ難民として悩みの種となっていくのでした。

第四次中東戦争とテロ活動

パレスチナ全土がイスラエルの領土となったことを受けてパレスチナから逃れるいわゆるパレスチナ難民が急増していくことになります。そんな中1964年にエジプトのナセル大統領などのアラブ諸国の支援を受けてパレスチナの領土をイスラエルから奪還するパレスチナ解放機構が組織されました。

パレスチナ解放機構は最初のころは当初は話し合いによる問題解決を掲げてイスラエルとの交渉を行っていこうとする穏健な団体でしたがイスラエルが聞く耳を持たないことや、1969年に武闘派のアラファトが議長となってからいわゆる反イスラエルのテロ組織に変貌していくこととなります。そんなパレスチナの最大のテロ事件が1972年のミュンヘンオリンピックのころに起きた黒い九月事件。

ミュンヘンオリンピックが行われていた9月5日にパレスチナのゲリラがイスラエル選手宿舎を襲撃。イスラエル選手団のレスリングコーチとウエイトリフティングの選手を殺害した後9人を人質にとってパレスチナ解放を訴えかけました。さらに人質の救助も失敗したことで人質9人全員とゲリラ5人警官1人が死亡する大惨事となり世界に衝撃を与えました。

第四次中東戦争

さらに1973年にエジプトは第三次中東戦争にて取られてしまったシナイ半島とイスラエルの領土拡大を防ぐためにシリアと共同してイスラエルを奇襲。いわゆる第四次中東戦争が幕を開けました。

第四次中東戦争が起こった日はイスラエルは贖罪日と呼ばれる休日であり、この攻撃は予想外わ、エジプト軍は第三次中東戦争の教訓を得てイスラエル軍を次々と撃破。シナイ半島を奪還することに成功します。しかし、イスラエル軍は迅速な徴兵によってすぐさま体制を立て直し、エジプト軍をジリジリと押し返していくように。しかし、エジプト軍はとある最強の武器をここで発動していくことになるのです。それが石油でした。

アラブ諸国は産油国を中心にOAPEC(アラブ石油輸出機構)を締結しており、石油の利権を守っていました。そこでアラブ諸国はイスラエルに支援している国家に対して石油を輸出しないという制裁に乗り出してイスラエルの支援国を威圧。しかし、イスラエルに決定的なダメージを与えることはできず、最終的にはイスラエルとシナイ半島の返還を条件とした講和を行うことになったのでした。

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