帝国の再興
コンスタンチノープルか盗られて滅亡したビザンツ帝国でしたが、亡命した貴族たちがニカイア帝国を建国したことでなんとかその命脈は保たれることとなります。ニカイア帝国のミカエル・パレオロゴスがヴェネチアと敵対していたジェノヴァの協力を得て1261年にコンスタンチノープルを奪還しビザンツ帝国が復活。なんとかその勢力を立て直すことに成功しました。
しかし、いったん滅亡したビザンツ帝国はかつて地中海の覇者となっていたあの面影はほとんどなく、領土を保持したのはコンスタンチノープル周辺のみ。さらにはアナトリア半島にのちに大帝国となるオスマン帝国が誕生するとオスマン帝国がアナトリア半島に進行してアナトリア半島を完全に放棄。ビザンツ帝国は大混乱に陥ってしまいただでさえなかった領土がコンスタンチノープルのみとなってしまったのです。
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東ローマ帝国の滅亡
領土をほとんど失ってしまったビザンツ帝国。ビザンツ帝国はもうすでに滅んだも同じであり、いつ消えるかどうかも時間の問題でした。しかしながら途中でオスマン帝国が没落したことによってなんとか首の皮一枚でつながります。
でもオスマン帝国が復活してコンスタンチノープルの周辺がオスマン帝国領となるとついに首都であるコンスタンチノープルが包囲されることとなったのです。
東ローマ側の守備兵がたった7千に対し、オスマン側の軍は総勢十万人。さらにはその軍勢はオスマン帝国が手塩に育てたイェニチェリと呼ばれる軍隊でもあったのです。
十万のオスマン帝国軍は1453年にコンスタンチノープルに攻撃開始。絶望的な戦力差の中で包囲戦が開始されました。
しかしながら東ローマ帝国建国から約1000年。ローマ帝国から数えたら1400年続いた東ローマ帝国の意地は凄まじく、さらにはなんとも敵の侵攻から食い止めたテオドシウスの城壁がオスマン帝国軍の攻撃を凌いでくれたのです。そのおかげで戦局は劣勢にあったのにもかかわらず2か月もの間その状態が続いたのでした。
しかし、オスマン帝国のメフメト2世はコンスタンチノープルをただ包囲するのではなく、補給路を完全にシャットアウトして兵糧攻めにする作戦に移行。メフメト2世はなんと艦隊を山越えさせてコンスタンチノープルの補給路を完全にシャットアウト。東ローマ帝国は兵糧攻めにあったことで一気に士気がガタ落ちすることになったのです。
これを見たメフメト2世はイェニチェリを中心とした10万の軍勢で一斉に総攻撃を開始。
さらに不幸にも門の一つが閂をかえ忘れられていたことで、そこからオスマン軍が城内に侵入した結果コンスタンチノープルは陥落。最後の皇帝であるコンスタンティノス11世はオスマン帝国の軍勢に突撃を行い討死。これによって396年から1000年年続いた東ローマ帝国は滅亡することになったのです。
滅亡のその後
東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国はその後コンスタンチノープルをイスタンブールと名前を改めて首都としてオスマン帝国が滅亡するまで機能することになります。
オスマン帝国はその後バルカン半島やエジプト方面に急速に勢力を拡大。その後オスマン帝国は北アフリカからハンガリーにかけての広大な領土を手に入れ東ローマ帝国と並ぶほどの大帝国を築き上げることになります。
東ローマ帝国はまさしくヨーロッパを動かした帝国だったのですね。