イタリアヨーロッパの歴史ローマ帝国

1000年続いた帝国「東ローマ帝国」とは?わかりやすく解説

イスラム勢力の台頭

ビザンツ帝国の東方ではササン朝ペルシアが圧迫している状態となっていましたが、このササン朝から中国の産物などが到来。コンスタンティノープルにもたらされ、ここからコンスタンティノープルは東西貿易の中心地となっていきます。しかし、7世紀に入っていくとササン朝に劣勢を強いられていくようになっていきました。東ローマ帝国は一時はこの構成をしのぎ切ることに成功するのですが、この両国の抗争によってこの当時代表な東西貿易のルートであったシルクロードが衰退し代わって海路を使った貿易が主流になっていきます。

そしてこの海路の中心地であったアラビア半島南岸の中心都市メッカから新たな動きとしてイスラーム教が登場しました。イスラム教の開祖であるムハンマドは勢力を拡大してアラビア半島を支配。634年には早速イスラーム勢力が東ローマ帝国領に侵入を始め、ササン朝ペルシアとの戦いで疲弊していた東ローマ帝国はシリアとエジプトを奪われてしまいました。

特にエジプトが奪われてしまったことはこれまでの東ローマ帝国の穀倉地帯を奪われてしまったことと同じであり、東ローマ帝国はここから食料の配布が難しくなっていくことになりました。

東西の完全分立

イスラム勢力の侵攻に悩まされることになった東ローマ帝国。しかしイサウリア王朝の皇帝レオン3世が718年にウマイヤ朝を撃退したことで進行は一旦停止するようになりました。レオン3世はイスラム勢力との仲直りを行うためにできるだけイスラム勢力と同じ形にしていこうと考えていくようになります。

そこで出されたのが聖像の破壊運動。聖像とはキリスト像のことでイスラム教の教えである偶像崇拝の禁止を真似たものです。

しかし、聖像破壊運動によってカトリックとの対立が激化。というのもカトリックは基本的にゲルマン民族に対して聖像を使って布教活動を行なっていたため聖像の破壊活動が行われるとカトリックからしたら許すことができない内容だったのです。最終的には787年の第2ニカイア公会議決議によって聖像の破壊活動を行わないことで決着がついたのですが、その後にエイレーネ女帝が即位したこともあり、ローマ教皇は東ローマ帝国を見限ってかわりにフランク王国にローマ皇帝を授けることになりました。

こうしてヨーロッパは東の東ローマ帝国と西のフランク王国で対立が激化。地中海の統一は夢に終わってしまったのです。

東ローマ帝国のギリシャ化

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ローマ皇帝の座がフランク王国に渡ると東ローマ帝国は徐々にローマ帝国としての存在が薄れていくことになりました。9世紀に入っていくと南イタリアをかろうじて抑えている程度でローマとはいない状態となっており、ここから東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれていくことになります。

領土の方はというとじわりじわりと領土を失っていきましたが、ギリシャの文化が花開いていくようになり正教会の布教や東地中海の貿易などで富を稼ぎ、いわゆるマケドニア朝ルネサンスと呼ばれる文化の復興がなされていくことになりました。しかし、この文化はギリシャのものでローマのものとはもはや言えません。

マケドニア王朝の時代

文化では一流であったビザンツ帝国。ビザンツ帝国はその後マケドニア王朝の時代に突入していき、ビザンツ帝国を動かしていくことになります。

マケドニア王朝の時代の皇帝は有能揃い。例えばコンスアンティノス7世はギリシャ文化の育成に尽力し、バシレイオス2世の時には軍事力を高めてシリアの北から南イタリアのにまで拡大。

ビザンツ帝国は地中海貿易にも力を注ぎ、かつては貧乏であったビザンツ帝国はバシレイオス2世の時代では財宝をしまえるだけのスペースがなくなるくらいに潤沢となったのです。

バシレイオス2世は中期東ローマ帝国の全盛期を現出させ東ヨーロッパの大国の地位を確立したのでした。

ビザンツの落日

中期全盛期を迎えたビザンツ帝国。しかし1025年にバシレイオス2世が没するとその後は政治的混乱が続き大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発。せっかく案だけあった金銀財宝はすっからかんとなってしまいました。

さらにこれをチャンスと見たセルジューク朝が一斉に侵攻。ビザンツ帝国の重要拠点を次々と陥落させていきます。さらに侵攻を受けたアナトリア半島はビザンツ帝国の人的資源の供給地であり、ここを奪われることは軍隊の崩壊につながってしまいました。

その結果セルジューク朝にビザンツ帝国は連戦連敗。アナトリア半島のほとんどの地域は失われてしまい、さらには南イタリアさえも失う結末となってしまったのです。

これを受けてビザンツ帝国の皇帝は恥を忍んでローマ教皇に援軍を要請。ローマ教皇はこれを受け入れて援軍を派遣していくようになります。これがいわゆる十字軍です。十字軍の援軍やアレクシオス1世の活躍によってある程度の領土を奪還。バルカン半島もある程度回復していき、ビザンツ帝国の領土は復活を遂げることになるのでした。

その後ビザンツ帝国は崩壊しかけの軍隊を何とかするためにプロノイア制を実施。これは軍事奉仕と引き換えに徴税権を与えるというものであり、これをすることは皇帝の権威を低下させてしまいます。しかしアレクシオス1世はこの制度を取り入れビザンツ帝国を立て直したのです。

ビザンツ帝国の一時的滅亡

ビザンツ帝国はなんとか立て直したのですが、もう時すでに遅しでした。ビザンツ帝国はセルジューク朝の侵攻を十字軍でなんとかふせいだのですが、マヌエル1世の時にシチリア侵攻が失敗したことで国はガタガタ。文化は最盛期を迎えていましたが、貴族たちの勢力拡大を止めることができなくなってしまい、国はボロボロとなってしまいました。

そこでビザンツ帝国は再び教皇に対して援軍を要請。しかし、ヴェネチア主導で行われたこの第4回十字軍はコンスタンチノープルに目が眩んだヴェネチア商人によって反故にされてしまい、コンスタンチノープルに侵攻。1204年に、第四回十字軍をしてコンスタンティノポリスを陥落させてしまい、その結果東ローマ帝国が滅亡し。そのかわりコンスタンチノープルには現在のベルギーあたりを支配していたフランドル伯のボードゥアンを皇帝とするラテン帝国が建国されたのです。

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