どんな品物が取引されていた?南蛮貿易の実態とは
大航海時代の波を受けて始まった南蛮貿易。ポルトガルやスペインからもたらされる品々は、西洋の技術を知る貴重な手掛かりとなり、日本の文化にも大きな影響を及ぼしました。一方でポルトガルやスペイン側にとっても、日本との貿易は大変有益で魅力的なものだったと伝わっています。一体どんな品物が取引されていたのでしょう。次に、南蛮貿易の特徴と具体的な内容について見ていきたいと思います。
目玉は「銀」「生糸」「鉄砲」「火薬」
「黄金の国・ジパング」
かのマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、日本のことをそのように語っています。
日本は莫大な金を算出し、宮殿は金でできている……という形容はいささか大げさかと思われますが、南蛮貿易でポルトガル人がまず目を付けたのが、日本で採れる鉱物だったことは間違いないようです。
日本からの輸出品は、銀、銅、硫黄などの鉱物や、刀剣、工芸品など。金も取り扱われていましたが産出量はそれほど多くありませんでしたので、南蛮貿易輸出品では銀がメイン。世界遺産にもなった石見銀山は、世界屈指の産出量を誇る銀山でしたので、日本銀は南蛮貿易の目玉商品となり、どんどん採掘されて海外へと輸出されていきました。
南蛮貿易によって、ポルトガルやスペインから渡ってきた輸入品の主役は、鉄砲と火薬。特に火薬は、材料となる硝石が日本ではほとんど手に入らなかったため、南蛮貿易で盛んに取引。おりしも時代は戦国時代、戦いの在り方も変わりつつあり、多くの武将たちが鉄砲に興味を持ち始めていて、鉄砲や火薬への需要が高まっていたのです。
武器の他には、ヨーロッパのガラス製品やメガネ、時計など技術製品、ワインなどが挙げられます。
また、ヨーロッパから日本へやってくる途中に立ち寄るインドや中国などの品々も、日本に入ってきていました。例えば生糸や絹織物、香辛料など。南蛮船を介して、様々な品物が取引されていったのです。
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キリスト教の布教と南蛮貿易
南蛮貿易で取引されていたのは品物だけはありません。
既にお話したとおり、非常に早い段階で、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルを乗せた船が平戸にやってきています。目的は日本でのキリスト教の布教です。
ヨーロッパでは1534年、イエズス会というカトリック修道会が結成されています。彼らは非常に活動的で、カトリックを世界中に広めるため、世界各地に赴き、精力的な布教活動を続けていました。
いくら大きな船を造る技術が発達してきたとはいえ、航海にはまだまだ危険が伴う時代。まして、アフリカ大陸をぐるっと回って日本を目指すなど、命の保証はありません。それでもイエズス会の宣教師たちはひるむことなく船に乗り、商人や船乗りたちとともに新天地を目指して海へ。1549年にザビエルが日本にやってきて以来、多くの宣教師たちが何度も日本を訪れています。
イエズス会は日本では「耶蘇会(やそかい:中国での呼び方)」と呼ばれていました。大友宗麟や高山右近、大村純忠など名だたる大名たちもキリスト教に入会しています。
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朱印船貿易と南蛮貿易の違いとは
朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)とは、16世紀末から17世紀初めにかけて、日本とアジア諸国との間で行われていた行われていた貿易のことです。
取引の際、「朱印状」と呼ばれる許可証を持たなければならなかったため、「朱印船貿易」と呼んでいます。
朱印船貿易が始まったのは戦国時代末期、豊臣秀吉のアイデアだったそうです。
その後、豊臣が滅び、徳川家康が江戸幕府を開いてから、家康が秀吉のアイデアを引き継いで(盗んだ?)、江戸幕府が朱印状を発行して貿易の許可を出す、というスタイルを確立しました。
異国との貿易をしてお金を儲けたいと思っている人が多かったので、朱印状を発行するだけで幕府にもお金ががっぽがっぽ。朱印船貿易は幕府のお財布を潤したようです。
ただ、幕府による鎖国体制の強化の影響で、朱印船貿易は1635年に廃止されます。
朱印船貿易も南蛮貿易も、異国との貿易には違いありません。ただ、南蛮貿易がポルトガルとスペイン相手の貿易であったのに対し、朱印船貿易の相手は東南アジアの国々。フィリピンやベトナム、ミャンマー、タイなどとの貿易を行っていました。
二つの貿易の違いは、相手国が異なる、という点になります。
鎖国・力関係の変化……南蛮貿易の終焉
ポルトガルが日本にやってきてからおよそ100年ほどの間続いた南蛮貿易。一時は大変な賑わいを見せていましたが、江戸幕府の鎖国方針が決め手となり、南蛮貿易は終焉を迎えることとなりました。
一方、ヨーロッパでも、各国の力関係に変化が。17世紀に入ると、それまで大航海時代をけん引していたポルトガル、スペインが衰退し、代わりにオランダやイギリスが台頭していきます。
日本が鎖国を意識するようになった理由の一つが、キリスト教が日本に与える影響でした。
貿易には大きな魅力がありましたが、キリスト教の信仰は江戸幕府にとって脅威。キリスト教の布教活動が盛んなポルトガルとの貿易はリスクが高いと考えるようになります。異国との貿易は続けたいがキリスト教は禁止したい……。江戸幕府は1633年から数年間に渡って3度に分けて鎖国令を出し、ポルトガル船の締め出しを実行。1639年にポルトガル船の来航を禁じる令を出します。
これにて南蛮貿易は終了。日本は中国とオランダとだけ、貿易を行うようになります。貿易の窓口は長崎の出島。オランダもヨーロッパの国ですがキリスト教の布教活動はほとんど行っていなかったため、オランダとの貿易はその後もずっと続いていきました。