五稜郭の占領と蝦夷地制圧
蝦夷地に向かった榎本艦隊は、防備を固めている箱館港に直行するのではなく、別な地点で上陸し箱館五稜郭を目指すことにしました。1686年10月21日、榎本艦隊は箱館の北方にある鷲ノ木(現在の森町)で3000名ほどの部隊を上陸させます。
このころ、箱館は新政府により箱館府とされ、少数の松前藩兵と箱館府兵が警備するだけでした。鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は二手に分かれて箱館府に進軍します。1868年10月22日、峠下に布陣していた旧幕府軍は箱館府兵の攻撃を受け、戦いが始まりました。
10月26日、各所で箱館府兵を打ち破った旧幕府軍は五稜郭を占領。榎本艦隊は箱館に入港します。11月上旬、旧幕府軍は松前に進軍し松前城を陥落させました。松前藩主は戦局の不利を悟り船で蝦夷地を脱出。旧幕府軍は蝦夷地を手中に収めます。しかし、この戦いのさなかに榎本艦隊は旗艦開陽丸を座礁により失いました。
榎本の総裁就任
松前藩主が青森に逃亡したことにより、旧幕府軍は蝦夷地を完全に制圧しました。幹部たちが箱館に戻った後の12月15日、投票によって最多得票を獲得した榎本武揚が総裁に選出されます。
選挙結果を参考に、主要な役職が決められました。榎本に次ぐ副総裁は松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸軍奉行並に土方歳三、箱館奉行に永井尚志らが就任します。
投票に先立つ12月1日、榎本は右大臣岩倉具視に宛てて、旧幕臣による蝦夷地開拓を歎願していましたが、12月14日に嘆願書は却下。新政府軍は榎本らを攻撃するため軍を北に向けます。これを受け、榎本らは蝦夷地の防備を固めました。
榎本を総裁とする新政権は、「箱館政権」あるいは「蝦夷共和国」と通称されます。榎本らはそのように名乗ったことはありませんでしたので、俗称といってもよいでしょう。
諸外国との交渉
1854年、日本はペリーとの間で日米和親条約を締結しました。条約により、伊豆の下田と蝦夷地箱館が開港地とされます。1858年に結ばれた日米修好通商条約でも箱館は開港地と位置づけられました。そのため、箱館には欧米列強が領事館などの外交施設を置きます。
榎本が箱館を占領した際、諸外国とどのように付き合うかという課題がありました。1868年11月8日、松前方面に出動していた榎本が箱館に戻り、入港してきたイギリス・フランスの軍艦艦長や両国の領事と面会します。
会談後、榎本はイギリス・フランス側に会議録(メモランダム)を要求。両軍艦の艦長は覚書を送ってきました。
その中で、蝦夷地をめぐる戦いは国内問題で両国は厳正中立を保つことや榎本の政権を「事実上の政権」として認定すると記載されます。榎本は「事実上の政権」として認定されたことを最大限活用しました。
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蝦夷共和国の終焉
1868年10月30日、榎本軍が箱館五稜郭を占領したとの知らせが新政府のもとに届きました。新政府は津藩、岡山藩、久留米藩などの兵士を青森に送って防備を固めます。その後、蝦夷地攻略のため兵力を青森に集めました。旗艦開陽丸を失い、制海権に不安があった榎本らは最新鋭戦艦甲鉄の奪取をはかって宮古湾海戦を起こしますが失敗。箱館での新セフトの決戦にも敗れ、蝦夷共和国は短い命を終えることになります。
起死回生を狙った宮古湾海戦
圧倒的兵力を誇る新政府軍を迎え撃つため、絶対維持しなければならなかったのが制海権です。しかし、松前藩との戦いの最中、榎本艦隊の旗艦開陽丸は江差で座礁・沈没してしまいました。海軍力の不足を補うため、榎本らは起死回生策を練ります。
新政府軍の情報を探っていた榎本たちは、新政府軍の最新鋭戦艦甲鉄が宮古湾に入るとの情報を得ました。甲鉄は旧幕府が購入した戦艦でしたが、新政府に引き渡されます。旧幕府軍は甲鉄に奇襲攻撃をかけ、船を乗っ取ろうと考えました。
この作戦は「アボルダージュ」とよばれ、「接舷切り込み攻撃」と言い換えてもよい作戦です。旗艦回転丸に乗り込んだ土方歳三らは宮古湾で甲鉄を奇襲。白兵戦を仕掛けます。しかし、甲鉄には機関銃の元祖ともいうべきガトリング砲が積み込まれており、切込みは失敗。回天丸は宮古湾を脱しました。