室町時代戦国時代日本の歴史

武田と織田の血を引くプリンス「武田信勝」苦難と悲劇の一生をわかりやすく解説!

祖父・信玄の死と武田氏の弱体化

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信勝の母という存在によって結びついていた武田氏と織田氏ですが、彼女の死により、同盟関係は破綻してしまいます。そして、祖父・信玄の病死に伴い、武田氏は徐々に弱体化の一途を辿るのです。まだ幼い信勝にはどこまで理解できていたかはわかりませんが、父・勝頼の苦闘をおそらくそばで見ていたことでしょう。栄光から斜陽へと一転した武田氏の様子を中心に解説していきます。

織田氏と手切れする

元亀2(1571)年、信勝の母・龍勝院が亡くなると、信勝は、次期当主となった父・勝頼と共に、武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)へと移りました。

織田の血を引く母が死去したことで、武田氏と織田氏の関係が弱まってしまいます。しかし、そうならないためにも、武田信玄と織田信長は、信玄の五女・松姫と信長の息子・信忠(のぶただ)の婚約を取りまとめました。

ところが、ほどなくして武田氏と織田氏は手切れとなり、同盟関係も破綻してしまったのです。

祖父・信玄の死と後継者指名

信長と関係を断絶した信玄は、室町幕府将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の檄に応じ、京都を目指す西上(せいじょう)作戦を開始しました。

その途中、武田勢は徳川家康との三方ヶ原(みかたがはら)の戦いに臨み、家康勢を撃破しますが、信玄はそこで病に倒れてしまいます。西上作戦を断念して甲斐に帰国しようとした信玄は、そのまま亡くなってしまいました。

そして跡を引き受けることとなったのが信勝の父・勝頼でした。しかし、一説には、信玄は信勝を後継者とし、彼が成人するまでは勝頼が後見をつとめるようにと言い残したとも言われています。勝頼は信玄が滅ぼした諏訪氏の娘が産んだ子で、そもそも家臣団の中には諏訪氏を側室に迎えることを反対した者も多かったと伝わっており、勝頼が跡を継ぐには障壁が大きいと信玄も感じたのかもしれません。

ともあれ、武田氏は信玄という大きな支柱を失い、勝頼は難しい舵取りを迫られることになったのでした。

父の奮闘を見守るが…武田氏はどんどん弱体化

信勝の父・勝頼は、信玄の穴を埋めるべく奮闘します。信勝はまだ7歳でしたから、父の姿を見守ることしかできなかったことでしょう。

勝頼は積極的に外征を行い、勢力拡大を図ります。当初は織田氏や徳川氏と互角にやり合っていましたが、やはり、徐々に状況は武田不利へと傾いていきました。

そして天正3(1575)年、長篠(ながしの)の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、武田氏はここから坂を転げ落ちるかのように衰退していきます。信長との和睦を図ろうとしましたが、織田の血を引く信勝がいても、何の意味もありませんでした。まさに、武田氏は沈みかかった船となっていたのです。

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