室町時代戦国時代日本の歴史

武田と織田の血を引くプリンス「武田信勝」苦難と悲劇の一生をわかりやすく解説!

裏切りの連続の果てに…武田氏滅亡

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武田信玄を失い、長篠の戦いで敗れた武田氏からは、どんどん力が失われていきました。その上、従う豪族たちの心もまた、離れていったのです。それは、親族ですら同じことでした。ついに勝頼と信勝は追いつめられ、逃げ場を失ってしまったのです。信勝の辿った悲劇的な最期を見ていきましょう。

豪族の心はどんどん武田氏から離れる

長篠の戦いで多くの武将を失った武田氏は、かつての信玄時代のような強さは見る影もありませんでした。徳川家康が要衝・高天神城(たかてんじんじょう)に攻撃を仕掛けてきた際、武田勝頼は他にも交戦中で、奮闘する味方に援軍を送ることができず、みすみす落城を許してしまったのです。これが大きなきっかけとなって、豪族たちの武田氏への信頼は揺らぎ、離反者が続出し始めてしまいました。

そして、信玄の娘婿という強固な関係であるはずの木曽義昌(きそよしまさ)が織田信長へと寝返ったことをきっかけに、信長は武田氏を滅ぼすための甲州征伐(こうしゅうせいばつ)へと乗り出してきたのです。天正10(1582)年2月のことでした。

次々と家臣が離反

徳川家康と連合し、甲斐へと討伐軍を差し向けてきた信長の前に、武田氏に従う豪族は離散しました。武田信廉(たけだのぶかど)など近しい親族までもが逃亡し、上昇を誇った武田軍団はあっけなく瓦解します。すでに16歳となってはいたものの、信勝にはどうすることもできませんでした。

最後まで武田への忠誠を貫いた勝頼の異母弟で、信勝にとっては叔父である仁科盛信(にしなもりのぶ)が討死を遂げると、勝頼と信勝はいよいよ追い込まれ新府城(しんぷじょう)への撤退することになりました。

しかしここで、またしても一族の穴山梅雪(あなやまばいせつ)が裏切ります。これを見た武田の兵たちは次々と逃げ出し、勝頼らに従うものはわずかとなってしまいました。

この時、信勝ははじめて自己主張らしきものをします。新府城へ籠城し、織田・徳川連合軍との対決を主張したのです。しかし、勝頼はそれを受け入れず、家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼ることに決めました。

勝頼には、生き延びて再起を図ろうという思いがあったのかもしれません。その一方で、信勝は、ここで散ってもいいと思っていたのではないか…とも推測できます。武田の当主となるべき存在として、きっと信勝にはもう覚悟ができていたのでしょう。

望みを託した家臣にまで裏切られる

小山田信茂を頼ろうと、わずかな供を連れて向かった勝頼と信勝ですが、待ち受けていたのはあまりにも非情な仕打ちでした。一向に迎えに来ないばかりか、訪れた一行に向かって鉄砲を撃ちかけてきたのです。武田二十四将と呼ばれる武田を支える重臣のひとりであるはずの小山田信茂にこんな裏切りを受けるとは…信勝の胸中はどんなものだったのでしょうか。

こうして、行き場を無くした勝頼・信勝一行は、天目山(てんもくざん)を目指しました。実は、ここはかつて武田氏の13代当主・武田信満(たけだのぶみつ)が敵に攻められ自害を遂げた場所。つまり、彼らは覚悟を決めたのです。

万策尽き…16歳の生涯を自害で閉じる

天目山を目の前にして、一行は敵に追いつかれてしまいます。最後まで付き従った土屋昌恒(つちやまさつね)小宮山友晴(こみやまともはる)らが奮戦して敵を食い止めますが、それは主君たちを逃がすためではなく、彼らが自害するための時間稼ぎでした。

万策尽きた勝頼と信勝、そして勝頼の後妻で信勝の継母である桂林院(けいりんいん)は、そこで自害を選びます。享年は、勝頼37・信勝16・桂林院は19でした。信勝は、大竜寺(だいりゅうじ)の住職で勝頼のいとこに当たる麟岳(りんがく)と刺し違えて絶命したとも伝わっています。たった16歳でこれほどの覚悟があったのかという潔い最期でした。

こうして、信勝をもって、武田氏の嫡流は滅亡したのです。

花開くことのなかった悲劇のプリンス

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信勝は武将としてこれからというときに家の滅亡を迎え、花開くことなく散りました。裏切った小山田信茂は、「古今未曾有の不忠者」として信長の命令で処刑されています。ただその直後、信長は本能寺の変で命を落とすこととなり、主を失った甲斐は戦乱の地へと変わるのです。しかし、本来信勝を支えるはずだった、生き残った武田の家臣たちは徳川家康に召し抱えられ、武田の強さはそこで息づいていきました。そして、一度は武田の名跡も家康の息子・武田信吉(たけだのぶよし)に受け継がれるのです。

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