日本の歴史昭和

三井の大番頭として財閥を率いた「団琢磨」を元予備校講師がわかりやすく解説

三井三池炭鉱の社長となる

三井三池炭鉱に残った団は、三井三池炭鉱社事務長に就任しました。団は三池炭鉱の生産性を上げるため、三つの大工事を敢行します。一つ目は三池港の修築でした。三池港は日本国内でも非常に珍しい閘門式のドックを持つ港です。閘門式はパナマ運河にも使われている技術で、当時の最先端でした。

次に手を付けたのが三池鉄道の敷設。三池炭鉱から採掘した石炭を三池港に運ぶための鉄道で、労働者の輸送も行いました。三池炭鉱と三池港結ぶ三池鉄道の鉄道敷は明治日本の産業革命遺産として世界文化遺産に登録されます。三つ目は大牟田川の浚渫工事でした。

また、最新型のポンプを導入することで炭坑内に侵入する水の排除にも成功します。三大工事の完工により生産性を上げた三池炭鉱は国内屈指の生産量を誇る炭鉱となりました。

三井財閥の大番頭になる

1909年、団は三井鉱山の会長となります。このとき、三井鉱山の利益は三井銀行を越え御三家筆頭の三井物産に肩を並べるまでになりました。三井財閥の稼ぎ頭にとなった三井炭鉱。その資金を有効に使うことで、三井財閥はさらに成長を遂げます。

このころ、三井の内部では三井物産設立の立役者で、商業化路線を推進する益田孝と三井銀行の立て直しに辣腕を振るい、三井の工業化路線を推進する中上川彦次郎が三井の路線をめぐって対立していました。

三井内部の混乱を治めるため、1909年に持株会社である三井合名会社が設立されます。三井合名会社は三井財閥の頂点に立つ会社で、この会社を中心に傘下の企業を統率するコンツェルンが形成されました。1914年、団琢磨は益田孝の後任として三井合名会社の理事長に就任。三井の大番頭として財閥を率いる総帥に上り詰めます。

1920年代の経済恐慌と財閥に対する反感

第一次世界大戦が終結した1919年以後、日本経済は長期にわたる不況に苦しみます。1920年、ヨーロッパ諸国が大戦の痛手から復帰すると、日本製品の売り上げがガタ落ちして戦後恐慌を迎えました。

1923年、首都東京を関東大震災が襲います。多くの企業が支払い不能に陥る震災恐慌が発生し、経済界は大きなダメージを負いました。さらに、1927年、震災恐慌時に発行した震災手形が支払い不能になることで金融恐慌が勃発。日本は行きつく間もないほど連続する強硬に苦しみます。

もっとも大きいダメージとなったのは世界恐慌が原因で起きた昭和恐慌でした。この時は、農村も繭の輸出激減や豊作貧乏などにより大打撃を受け、農村恐慌が起きます。

三井をはじめとする財閥は、資金繰りが厳しくなった企業を次々と買収することで、さらに巨大化。産業界を支配していきました。

団琢磨の暗殺

恐慌で多くの人々が苦しむ中、財閥は事業規模を拡大しました。そのため、財閥に対する人々の反感が強まります。1930年代、人々の反感や不満を背景に政党政治の打破を訴える国家改造運動や右翼の活動活発化などがみられました。

1930年代初頭、茨城県大洗市にあった立正護国堂の僧侶井上日召は近隣の青年たちを集め政治活動をおこないます。井上らは、現在の政党政治は財閥と結びつき国民をないがしろにして私利私欲を図っていると糾弾。政財界の有力者を暗殺することで、軍のクーデタを誘発し天皇中心の国家革新を行うべきだと主張しました。

井上らは「一人一殺」を合言葉に、政財界の有力者暗殺を計画。ターゲットの一人として三井の総帥だった団琢磨を選びます。1932年3月5日、ピストルを隠し持った菱沼五郎が三井銀行本店前で団琢磨を射殺しました。

日本の産業界に偉大な足跡を残した団琢磨

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血盟団事件でターゲットとされ73歳で生涯を閉じた団琢磨。彼は、今でいう「理系」の専門技術者として三池炭鉱の発展に努め、三井財閥の成長に大きく寄与しました。それだけではなく、九州全体の産業振興にも大きな影響を与えます。2011年、九州新幹線鹿児島ルートが全通した時、三池炭鉱のおひざ元だった大牟田に団琢磨の功績をたたえる銅像が設置されました。偉大な産業人が暗殺でこの世を去ったのは惜しいことではないでしょうか。

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