日本の歴史飛鳥時代

聖徳太子が建てさせた世界遺産「法隆寺の歴史」を元予備校講師がわかりやすく解説

現存する最古の建物群、西院伽藍

法隆寺には、西院と東院という二つの建物群があります。寺院の建物のことを特に伽藍といいました。西院伽藍中門金堂五重塔経蔵、中門と連結し金堂や五重塔を囲む回廊などによって構成されます。

中門や回廊、経蔵はいずれも飛鳥時代につくられた貴重な建物。西院伽藍の中央にある金堂も飛鳥時代の建造物です。金堂の中には名仏師鞍作鳥がつくった金銅釈迦三尊像が安置されていますよ。

西院伽藍でひときわ目につくのが五重塔。哲学者和辻哲郎は、『古寺巡礼』の中で法隆寺西院伽藍の五重塔をとりあげました。和辻が法隆寺を訪れたのは、大和を巡る旅の最後です。和辻は法隆寺五重塔の美しさをほめたたえました。五重塔の内部には100体の塑像があり、これも国宝です。

奈良時代に建立された夢殿

東院伽藍のなかでひときわ目をひくのが夢殿です。独特の八角形の建物は、見るものに強い印象を与えることでしょう。屋根のてっぺんには見事な宝珠が据え付けられています。

夢殿が建立されたのは奈良時代。斑鳩宮の跡地を訪れた行信という高僧が、斑鳩宮跡の荒廃を嘆き、聖徳太子供養のために作ったお堂が夢殿です。

夢殿の本尊は救世観音。救世観音とは文字通り、世の中に住む人々を救う観音菩薩のこと。この救世観音は聖徳太子が生きていたころにつくられた、等身大の像だという伝説があります。

江戸時代、200年間公開されていなかった秘仏の救世観音像は明治時代のフェノロサによる調査を受け、再び現世の人たちの目に触れるようになりました。

平安時代に再建された大講堂

法隆寺西院にある大講堂。大講堂とは僧侶たちが仏法を研修したり法要を営むためのお堂です。もともとは、金堂や五重塔などを囲む回廊の外側にありました。

925年、大講堂が落雷による火災により焼失。990年に再建されたとき、廻廊を北側に延長

して大講堂と連結させました。

990年に再建された大講堂は、1146年と1206年、1222年、1405年、1603年と幾度か修理されます。もっとも大規模な修繕は1938年に行われた昭和の大修理。この時は、建物を全て解体して修理が行われました。

中門から見ると、右手に五重塔、左手に金堂、中央のずっと奥に大講堂が見えます。大講堂の中には国宝の薬師三尊像が安置されていますよ。薬師三尊像に限らず、法隆寺には国宝指定されたたくさんの仏像があるので、それも見どころとなっています。

聖徳太子信仰の盛り上がりで建てられた聖霊院

聖徳太子の死後、太子の徳を慕った人々が太子本人を信仰するようになりました。これを聖徳太子信仰といいます。信仰が盛り上がりを見せると、法隆寺に聖徳太子の像を安置する建物が作られました。それが、聖霊院です。

聖霊院の中には、平安時代に彫られた国宝の聖徳太子像や蘇我入鹿に殺された山背大兄王など聖徳太子一族の像、聖徳太子の師となった高句麗僧慧慈の像などが安置されました。聖徳太子の坐像の衣装は、笏を手に持ち、朝廷に参内するときの正装です。

聖霊院は法隆寺の中では比較的新しい鎌倉時代の建物。聖徳太子が死後、長い間、多くの人々に愛されていたからこそ、信仰が没後600年以上たった鎌倉時代まで続いていたのでしょう。

とはいえ、鎌倉時代でも700年近く昔の建物ですから、法隆寺の歴史の深さがしのばれますね。

鎌倉時代に再建された西円堂と「峯の薬師」

法隆寺には夢殿以外にも八角形の建物があります。それが、西円堂。西院伽藍の北西に位置する建物で、中に安置されているのは薬師如来像。法隆寺の中でも小高い場所に位置するため、「峯の薬師」の愛称で親しまれました。

西円堂の薬師如来像には、豪華な光背(仏像の背後にある光明をかたどった装飾)が設置されています。光背には、七仏薬師や精巧な千体仏が取り付けられました。光背は鎌倉時代に後付けされたものですが、非常に見事です。

峯の薬師の周囲には、仏法を守る護法の善神である十二神将が配置されました。十二神将は薬師如来を守るための仏といってよいでしょう。ほかにも、堂内には千手観音像不動明王像が安置されています。

法隆寺の伽藍や仏像を守ったフェノロサと岡倉天心

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明治初期、文明開化とともに始まった廃仏毀釈運動は、全国各地の古寺を襲います。そのせいで、貴重な文物が流出・破却されてしまいました。フェノロサとともに夢殿観音像に出会った岡倉天心は、「一生の最快事なりというべし」と感動をあらわにします。岡倉天心は、文部省に法隆寺壁画保存を訴えるなど、法隆寺の文物を守るための活動をしました。彼らの活動があってこそ、私たちは法隆寺や仏像たちを目にすることができるのです。

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