中国の歴史

古代中国文明の源となった「黄河文明」を元予備校講師がわかりやすく解説

大規模遺跡から存在が確認された殷王朝

夏と異なり、実存に異論がないのが殷王朝です。殷の建国者である湯王(とうおう)は、夏の最後の君主にして暴君だった桀を滅ぼすため挙兵。殷の湯王は、不徳の君主である桀王を武力で討伐(このような政権交代を放伐という)し、殷王朝を打ち立てます。

殷は、のちの時代に出現する秦や漢のような強大な中央集権国家ではありません。宗教的な儀式を中心に結びついたゆるい国家連合(邑制国家)だったと考えられます。

殷の最後の君主は紂王といいました。紂王は美女妲己の魅力のとりことなり、彼女を喜ばせるため「酒池肉林」の庭園を造り、諫めた臣下を残虐な刑罰で殺害します。

これを憂えた武王が、紂王を放伐して周王朝を建国しました。夏の桀王、殷の紂王はのちの世まで典型的な暴君とされ、「夏桀殷紂」という四字熟語の語源となります。

黄河と長江は、中国文明の源流

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中国大陸を東西に流れる二つの大河、黄河と長江はそれぞれ中国文明の土台となる古代文明を生み出します。黄河文明では畑作中心の仰韶文化と竜山文化、長江文明では稲作中心の河姆渡文化と良渚文化が繁栄しました。二つの文明はやがてまじりあい、混然一体となって古代中国文明に統合されます。

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