古代中国文明の源となった「黄河文明」を元予備校講師がわかりやすく解説
黄河中流域に芽生えた仰韶文化
1921年、スウェーデン人のアンダーソンが黄河中流域の洛陽周辺で仰韶文化の遺跡を発掘しました。仰韶文化の範囲は現在の陝西省から河南省、山西省に及びます。
仰韶文化の人々はキビやヒエ、アワなどの雑穀類を栽培し、主食としていました。仰韶文化最大の特徴は赤字に幾何学文様が施された素焼きの陶器である彩陶(彩文土器)を生産していたことです。仰韶文化の人々は、これらの土器に加え、磨製石器を使用(新石器時代)し、竪穴住居に居住していました。日本でいう縄文時代の人々の生活スタイルに似ていますね。
雑穀の栽培とともに、豚や犬、ニワトリなどが飼育されていたことがわかっています。農耕、牧畜の原始的な形がすでにみられるといってよいでしょう。
また、中国といえば絹(シルク)のイメージが強いですが、仰韶文化の人々は絹の原料である生糸をとる養蚕を実践していた可能性もあります。
黄河下流域に生まれた竜山文化
竜山文化は黄河下流域で発見された文化です。竜山文化は紀元前3000年頃から紀元前2000年頃にかけて繁栄した文明でした。遺跡の発見は1930年ころで、中国人学者の手によって発見されました。竜山文化の範囲は黄河下流域から山東半島周辺です。
竜山文化の人々も、仰韶文化と同じくキビやヒエ、アワなどの雑穀を栽培していました。竜山文化の特色は、ろくろをつかって生産された薄手で光沢のある黒陶を作り出していたこと。黒陶とは別に、灰陶とよばれる煮炊きに使われた庶民用の土器も発見されました。
仰韶文化の時代よりも大規模な集落(邑)が形成され、次の時代である殷につながる要素が出現します。畜産では、牛や馬など大型の家畜の飼育が確認されました。
長江流域で発展した河姆渡文化と良渚文化
かつて、中国の古代文明といえば黄河文明のことを意味していました。しかし、現在は考古学的研究が進み、長江下流域にも黄河文明に匹敵する文明があったと考えるようになります。長江下流域に栄えた河姆渡文化と良渚文化をひとまとめにして長江文明と呼ぶこともありますよ。
河姆渡文化は仰韶文化とほぼ同じころの紀元前5000年頃に始まりました。河姆渡の人々が主食としていたのは米。黄河周辺の畑作に対し、河姆渡では稲作が文明の中心となりました。河姆渡遺跡からは稲もみや豚を描いた土器が出土。仰韶に引けを取らない文化があったと考えられます。
竜山文化と同じころに栄えたのが良渚文化。河姆渡文化と同じく、稲作を基盤とする文化でした。良渚文化を代表する出土品が玉器です。玉は中国で珍重された宝石のこと。長江流域には、他にも四川盆地の三星堆文化などもありますよ。
黄河文明や長江文明を母体とした古代中国の王朝
中国で最も古い正史である『史記』には、史記が書かれた前漢以前の出来事も数多く記されています。その中にははるか昔の神話の時代から、遺跡が発見されておらず伝説の王朝とされる夏、現在確認されている最も古い王朝である殷などについても記されました。史記の内容を裏付けたのが19世紀末に発見された甲骨文字資料です。
古代中国の様々な出来事を記した甲骨文字
1899年、清朝の首都北京の学者である劉顎は、薬として用いられる動物の骨(竜骨)の表面に未知の文字が刻まれていることに気づきました。羅振玉や王国維らが竜骨に記された文字の解読に成功します。以後、この文字を甲骨文字と呼ぶようになりました。
そもそも、なぜ、甲骨文字が動物の骨(竜骨)に刻み込まれていたのでしょうか。その理由は、殷王朝で占いの結果を動物の骨に書くということが行われていたからです。
甲骨文字は亀甲や獣の骨に刻まれた文字で、漢字のもととなりました。甲骨文字で書かれたのは占いの結果です。殷の時代、占いは国の政治を左右する重要なものでした。そのため、国家プロジェクトとして甲骨文字が竜骨に刻まれ、記録として保管されたのでしょう。
甲骨文字の発見と解読の結果、司馬遷が『史記』に書かれていた出来事が史実であることが証明されました。
伝説の夏王朝
司馬遷が書いた『史記』には、殷よりも前の王朝である夏のことが書かれています。夏の創始者である禹(う)は、黄河の治水に成功することで前の支配者である舜から指導者(天子)の座を譲られたと史記に書かれていました。
なぜ、殷は実在すると認められ、夏は伝説上の王朝とされているのでしょうか。それは、夏のことを記録した甲骨文字などの資料が出土していないからです。近年、中国での研究により、夏は実在した王朝であるとする説が有力になりました。
夏は、紀元前2200年頃に成立したと考えられ、竜山文化の次に黄河の中流域から下流域(中原)を支配したと考えられます。中国で夏の遺跡と考えられているのは河南省の二里崗遺跡。この遺跡からは青銅器などが出土しています。