ドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

ドイツを変えた2人の国王「フリードリヒ2世」をわかりやすく解説

プロイセンの大王フリードリヒ2世

image by PIXTA / 10974244

フリードリヒ2世は1712年にプロイセンを納めていたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の子として生まれました。父であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は『兵隊王』と呼ばれるほどの軍事オタク。長身の人物を手塩にかけて育て上げるなどの軍事改革を行いプロイセンを軍事大国に押し上げましたが芸術はからっきし。

文化と教養に全くともいっていいほど興味はなくいわゆる無骨者の国王でした。

フリードリヒ2世もそんな国王になるのかと思いますが、なんとフリードリヒ2世は父とは真逆で文化人。というのも母が教養人であったためその影響が強いというのが原因でした。

父との確執

フリードリヒ2世と父ヴィルヘルム1世の性格は真逆であり、それが元でやっぱり親子間での確執が生まれていくようになります。

例えばフリードリヒ2世がフルートの演奏会をすると父は激怒。杖を使って折檻を行うなど激しい暴力を与えていくことに。

そんな親子の確執が決定的なものとなったのがフリードリヒ2世の逃亡未遂事件。この当時親友であったカッテとともに南ドイツに逃亡を図りましたが、その途中で計画がバレてしまい失敗。父はこの当時暗殺の恐怖に怯えていたためフリードリヒ2世を廃嫡しようとしましたが、友人が計画の全てを被って処刑を受け、さらには神聖ローマ皇帝カール6世が仲裁に入ったことによって親子間での確執は修復。廃嫡はなんとか免れて皇太子としての道を歩み始めることになるのです。

啓蒙専制君主として

フリードリヒ2世のもう一つの特徴が絶対王政の途中であった18世紀のヨーロッパでは珍しく啓蒙専制君主であったことです。

啓蒙専制君主とは簡単に言うと「ある程度の理性をもとにして政治を行っていきましょうね。」というもの。

1740年にヴィルヘルム1世が崩御するとフリードリヒ2世はこれまでヴィルヘルム1世が行なってきた絶対王政的な政治をやめて宗教寛容令や拷問の廃止などを行い苛烈な政治を緩めます。

さらにはヴィルヘルム1世の時には見る気もなかった芸術分野も大いに発展。オペラ劇場を建設してフランス語とドイツ語を奨励するなど芸術・文化的な面でもプロイセンは大きく発展していくことになります。

さらにヴィルヘルム1世の巨人連隊に代表されるような少数精鋭の軍隊を廃止にして常備軍を増員。プロイセンの軍国化を推し進めていくことになります。

フリードリヒ2世と二つの戦争

image by PIXTA / 55489244

プロイセンを啓蒙専制という形で収めていったフリードリヒ2世。彼の治世にプロイセンは大きく飛躍することになるのですが、そのきっかけとなった二つの戦争がハプスブルク家のオーストリア継承戦争と七年戦争でした。

プロイセンはこの二つの戦争に勝利したことによって大国としての道を歩み始めることとなります。次はそんなプロイセンの歩みを決めた二つの戦争とフリードリヒ2世の動向について見ていきましょう。

オーストリア継承戦争(シュレジエン戦争)

フリードリヒ2世がプロイセン王に即位した頃、神聖ローマ皇帝であったカール6世が男性を残さずに死去。仕方なく娘であったマリアテレジアに皇帝を継がせることとなります。

しかし、これにフリードリヒ2世はこれまでの伝統に反しているとして猛抗議。

さらにはマリアテレジアに皇帝位を継がせるのを承認する代わりにこの当時肥沃な地として知られていたシュレジェンを割譲するように要求を出すようになります。

フリードリヒ2世はマリアテレジアからの回答を得られなかったことを受けて宣戦布告もなしにシュレジェンに侵攻開始。「卑怯だ!」といったらそれまでですが、この時代には卑怯というのは単なる偽善でしかありませんのでさっさとシュレジェンを占領。オーストリアはこの騙し討ちに対抗してなんとか耐えようとしますが結局1742年のベルリン条約によってシュレジェンの割譲を認める結果となりました。

しかし、マリアテレジアはあきらめません。1744年にはイギリスと組んだマリア・テレジアの反撃をおこない第二次シュレージエン戦争が巻き起こります。初戦ではプロイセンの敗北に終わるのですが、最終的にはプロイセンがホーエンフリートベルクの戦いとケッセルスドルフの戦いでもザクセン軍に勝利したことによってドレスデンにて講和。マリア・テレジアの夫であったフランツ1世が神聖ローマ皇帝即位を承認する代わりにプロイセンによるシュレージエン領有権を承認することに成功し、オーストリア継承戦争はここに終結したのでした。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: