代表的な尾張藩主
御三家筆頭として江戸時代でも最高ランクの家格を与えられた尾張藩には、数々の個性的な藩主が登場しました。有力な将軍候補とみられながら、積極的に動かず将軍位につかなかった徳川継友、徳川吉宗の享保の改革に異を唱え、独自の政治を行おうとした徳川宗春、幕末動乱期に尾張藩をひきいた徳川慶勝についてまとめます。
有力な将軍候補だった徳川継友
徳川継友は1692年、尾張藩3代藩主徳川綱誠の十一男として生まれました。いかに藩主の子とはいえ、十一男では藩主になる確率はほとんどありません。ところが、継友より藩主継承権が高い兄や甥たちが次々と亡くなったため、1714年に第6代尾張藩主となりました。
そのころ、将軍家では6代将軍徳川家宣が死去。幼い徳川家継が7代将軍となります。しかし、家継も幼くしてこの世を去ったため、将軍のあとつぎがいなくなってしまいました。
こんな時のために、家康が作っていたのが御三家です。尾張藩の当主が徳川継友、紀伊藩の当主が徳川吉宗でした。継友は最有力候補でしたが、積極的に将軍になろうという動きを見せませんでした。
継友が積極的に動かなかった理由の一つが、4代藩主徳川吉通の残した「将軍位を争うべからず」という家訓です。尾張藩では将軍を継ぐことよりも、尾張藩の存続が優先されたのでしょう。結局、8代将軍に就いたのは紀伊藩主徳川吉宗でした。
徳川吉宗と対立した徳川宗春
8代将軍に就任した徳川吉宗は、破綻状態にあった幕府財政立て直しのため享保の改革を始めました。享保の改革の基本は、倹約令で支出を減らし、年貢増徴(増税)によって収入を増やすというものです。
吉宗の倹約方針に真っ向から逆らったのが7代藩主の徳川宗春でした。宗春は藩主になるとすぐに、摂関家の一つである九条家に3000両を寄付するなど、朝廷との関係改善を図ります。
また、女性や子供でも夜間に安心して出歩けるように、名古屋の城下町を多数の提灯で照らし出しました。宗春は行き過ぎた倹約は人々の生活を圧迫し、庶民たちが苦しむことになると考えます。こうした政策は吉宗の享保の改革に真っ向から逆らうものでした。
とはいえ、江戸時代は藩の政治に幕府はあまり干渉しません。吉宗も苦々しく思いつつも、宗春の政治を止めませんでした。
しかし、宗春の支出増加の経済政策は尾張藩の財政を悪化させました。家臣たちとの対立も激しくなり、宗春は藩主の座を追われます。
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幕末動乱を生き抜いた徳川慶勝
江戸時代後期、尾張藩には将軍家やその周辺から養子が送り込まれました。そうした藩主の中には、尾張に入国せず、江戸に長期滞在するものも現れます。尾張藩の家臣たちは、尾張藩の親戚筋にあたる美濃高須藩から養子を迎えたいという希望を持ちました。
1849年、14代尾張藩主として高須藩から慶勝が迎えられ、家臣たちの希望はかなえられます。家督を継いだ徳川慶勝は、尊王攘夷の考えを強く持った人物でした。そのため、大老井伊直弼が勅許なく日米修好通商条約に調印したことに反発します。これに対し、井伊直弼は安政の大獄で徳川慶勝に隠居を命じました。
桜田門外の変で井伊直弼が殺害されると、慶勝は政治の表舞台に復帰します。第一次長州征討では征討軍総督となりました。この際、慶勝は長州藩に寛大な処遇をします。
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