明治維新後の尾張徳川家
戊辰戦争がはじまると、尾張藩は旧幕府ではなく官軍に味方しました。戦後、尾張藩は新政府から厚遇されます。明治時代に入ると、尾張藩士の一部は北海道の八雲町に入植し開拓を行いました。戊辰戦争の戦禍を免れた尾張徳川家は、多くの宝物を現代に伝えます。その多くは徳川美術館に収められました。
官軍につくことで厚遇された尾張徳川家
戊辰戦争が始まると、尾張徳川家は幕府ではなく新政府軍に味方しました。慶勝が尊皇攘夷派だったからというだけではなく、尾張藩自体が勤皇家だったことも大きく影響しています。これは、同じく御三家でありながら勤皇家を多く排出した水戸徳川家と似ているかもしれません。
戊辰戦争後、藩主の義宣は名古屋藩の知藩事となり、侯爵の爵位を授けられました。秩禄処分が行われると、義宣は74万円という当時としてはそうとう高額な金録公債証書を与えられます。
明治維新後しばらくは、尾張徳川家の本籍が名古屋に置かれていましたが、19代当主の義親の時代に東京に移動。名古屋の資産の多くも処分。第二次世界大戦後、資産の8割を喪失した尾張徳川家は規模を縮小させましたが、現在まで存続しています。
尾張徳川家が入植した北海道の八雲町
1875年、徳川義宣が病死したため、慶勝が再び尾張徳川家の当主となりました。慶勝は秩禄処分で得た金禄公債をもとでに、北海道八雲町の開拓事業を指導します。八雲という地名はスサノオノミコトの和歌から慶勝が選んで名付けた地名でした。
八雲町は北海道南西部の渡島半島北部にある町です。函館市と室蘭市の中間にあたる場所に位置していますね。慶勝が八雲町に作った農場を徳川農場といいます。慶勝は旧尾張藩士たちに生活の糧を与えるため、徳川農場を作りました。
第二次世界大戦後、公職追放や農地法の適用などを受け、徳川農場は解散となります。しかし、八雲町では農業や畜産、酪農などが盛んにおこなわれるようになりました。徳川農場は、八雲町の農業の基礎を築いたといってよいでしょう。
尾張徳川家の至宝が集められた徳川美術館
戊辰戦争で官軍についたことで、尾張は戦火から逃れます。そのため、初代藩主徳川義直以来の銘品や什器の数々を現代まで残すことができました。明治から大正にかけて、こうした品々を公開したところ、非常に大きな反響がありました。
展覧会が好評だったことを聞いた尾張徳川家当主の義親は、銘品や什器を保存する必要性を感じます。こうした品々を収めるために作られたのが徳川美術館でした。
徳川美術館には、大名家らしい武具や刀剣をはじめ、茶の湯の道具や書院造の部屋の再現、能舞台などが展示されています。そのほかにも、尾張徳川家が所有していた『源氏物語絵巻』など豪華な品々も展示されていますよ。それ以外にも、特別企画展などが開催されますので、江戸時代の歴史に興味がある方は、ぜひ、一度足を運ばれてはいかがでしょうか。
幕末の動乱で戦火を避けたからこそ、貴重な品々が現代に残った
もともと、将軍家が断絶したときに備えて家康がつくった御三家。幕末には、皮肉なことに尾張徳川家は江戸幕府に引導を渡すかのごとく新政府に味方しました。しかし、そのおかげで多くの貴重な宝物が失われることなく現代に引き継がれます。広い意味で、尾張徳川家は江戸時代の文化を守り、伝えたと言えるのではないでしょうか。