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フランス革命はここから!「バスティーユ牢獄」はなぜ襲撃されたのか

重税に苦しむ民衆とフランス王妃・マリーアントワネット

フランス革命のはじまりとなった「バスティーユ襲撃事件」。

民衆を革命に駆り立てた原因は、フランス王室や貴族たちの横暴と重税、貧困。当時のフランスでは、僧侶や貴族たちに税金の支払いの義務はなく、彼らのぜいたくな暮らしは民衆の税金が支えていました。

とりわけ、フランス王妃マリーアントワネットの浪費ぶりは、家庭を守る女たちを刺激。民衆の怒りなどどこ吹く風と贅沢な暮らしを続ける王室や貴族たちに、民衆の怒りは頂点に達します。

これ以上耐えられない!平民にも議会で発言する機会を!

そうした声は日に日に高まり、1789年5月5日、175年ぶりに「三部会(僧侶・貴族・平民の3つの身分の代表が議論する議会)」が開かれます。しかし、せっかく開かれた議会は、平民たちにとって満足のいく内容ではありませんでした。

不穏な空気が漂う中、政府はパリの町中に軍隊を配備。さらに、民衆に人気があった中産階級出身のネッケル財務総監を罷免し、強気な姿勢を見せます。

この動きに民衆の怒りが爆発。各地で暴動が発生し、群衆の数は一気に数千人に膨れ上がっていきました。

暴徒と化した民衆・武器をとれ!バスティーユへ!

怒りを爆発させ、暴徒と化したパリの人々。しかしパリ市内には軍隊が配備されており、このままでは丸腰のまま殺されてしまうかもしれません。身を守るためには武器が必要です。

7月14日の朝、群衆は廃兵院(軍の病院施設)になだれ込み、多勢にものを言わせて武器や弾薬を奪い取ります。

もっと弾薬を手に入れようと、群衆が次に目を付けたのが、あのバスティーユ牢獄でした。

バスティーユといえば、王政に反対した者たちが収監されると噂の牢獄。人々は吸い寄せられるようにバスティーユの周りに集結します。その数は時間とともに増え、数万人にも膨れ上がったのだそうです。

群衆はバスティーユの司令官ド・ローネに対し、弾薬の引き渡しと、牢獄に設置されている大砲の撤去を求めます。もともとは要塞として機能していたバスティーユ。このまま上から砲弾を撃ち込まれては被害は計り知れません。

バスティーユ側は、大砲の撤去には応じましたが弾薬の受け渡しには応じず、交渉は難航。時間がたつにつれ、外に詰めかけた民衆も飽和状態となり、昼過ぎ、数人が城壁を乗り越えて牢獄内に侵入。跳ね橋を落とし、大群衆が内部に押し寄せ、大混乱となります。

激戦の末の勝利・バスティーユ陥落

しかし、いくら大群とはいえ、戦いの経験などない民衆です。

形勢は不利。バスティーユの中庭に追い込められ、烏合の衆となったところを守備兵に発砲され、多くの死傷者が出ました。

その時、民衆側に新たな味方が現れます。パリ市内に配備されていたフランス衛兵軍です。

一部のフランス衛兵たちが、民衆へ銃を向けることを拒み、離反。大砲や弾薬を持ってバスティーユに駆け付けたのです。

これにより形勢逆転。司令官が降伏し、群衆はバスティーユ全体の制圧に成功します。専制政治の象徴は民衆の手に落ちたのです。

この時、バスティーユに収監されていたのは、年老いた囚人が7名ほど。さしたる凶悪犯でもなく、監獄とは名ばかりでほとんど空室状態だったのだそうです。

バスティーユを落として興奮状態に陥った群衆は、その勢いのままパリ市庁舎に向かい、市長を虐殺。騒動は夜通し続いたと伝わっています。

パリ市内に詰めていたフランス国王軍は、群衆を制圧することもできず、パリから撤退していきました。

フランスの市民革命の歴史を刻むバスティーユ広場

バスティーユ襲撃の知らせは、すぐにベルサイユ宮殿にも伝わりました。国王ルイ16世が側近に「暴動か?」と尋ね、それに対して側近が「陛下、これは暴動ではなく、革命です」と答えた、というエピソードはあまりにも有名です。

その後、バスティーユ牢獄はどうなったのでしょうか。

フランス革命の後、バスティーユ牢獄は解体されることとなりました。1806年に完全に解体が完了し、空き地となります。

そしてその後のフランスはというと……。革命の後も、皇帝ナポレオンの誕生と没落、王政復古、シャルル10世の反動政治など、民衆のための政治が行われることなく国は揺れ動き、フランス激動の時代は続きました。

ナポレオンの後、しれっと復活したブルボン王朝が、市民の権限を制限したり、貴族に有利な政策をとったりし始めたため、市民が激怒。再び大規模な動乱が発生します。世にいう「7月革命」です。

革命は市民が勝利。犠牲となった市民を追悼するため、1830年、あのバスティーユ牢獄跡地に記念の円柱が建てられます。

見上げれば守護天使が……バスティーユ牢獄は今

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その昔、漫画「ベルサイユのばら」を夢中になって読んだ身としては「バスティーユ」と聞くとなんだか血が騒ぎます。現在、バスティーユ牢獄の跡地は、てっぺんに黄金の天使が輝く円柱を中心とした、人や車が行きかう広場に。広場は市民たちの憩いの場であり、休みの日には市場が立つってにぎわうのだとか。バスティーユ牢獄は跡形もありませんが、歴史の痕跡を探して足を運ぶ観光客も多いのだそうです。

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