ヨーロッパの歴史ロシア

北の大国ロシアの歴史とは?わかりやすく解説!

十月革命

こうして訂正が崩壊したロシア。その後新しく政権を握ることになる臨時政府は戦争を継続するか否かで対立が起こるようになります。

さらに、ロシアでは労働者を中心とするソビエトが権力を保持するようになり、ロシアでは臨時政府とソビエトが並び立つ二重権力となってしまいました。

そんな中、ロシアの歴史を大きく変える人物がスイスからロシアに帰還します。その人こそソ連を成立させたレーニンです。

レーニンは臨時政府によってフィンランドに亡命することに一時期なるのですが、ボリシェビキの力が強まっていくとレーニンは十月革命を実施。臨時政府の本拠地であった冬宮を襲いレーニンが権力を確立。ちなみに、その十月革命後に総選挙が自由に行われた結果、ボリシェビキが負けた結果レーニンは総選挙をなきものとして一党独裁の状況に変更。

さらに最大の課題であった戦争問題とブレスク=リトフスク条約を結び多額の賠償金やウクライナ・バルト三国独立を認めさせるという条件のもとで終結。(のちにドイツが敗戦するとなしに)ついにソビエト連邦が誕生するに至るのでした。

ロシア内戦とレーニンの死

ボリシェヴィキによる独裁体制を確立させたレーニン。さらにレーニンはサンクトペテルブルクからモスクワに遷都してここで一党独裁の社会主義国家を形成していくようになりました。

しかし、これに警戒心を抱いた列強はチェコ軍の救出を盾にシベリア出兵していくようになります。

ボリシェビキは赤軍を結成してロシア内戦を指揮。泥沼の戦争に突入していき、ロシアの土地は大きく荒廃することになりました。

レーニンはこの状態を戦時共産主義で賄おうとし、農民から無理やり農作物を徴収するなどなかなかな強硬手段をとって戦争を乗り切ります。

結果的には赤軍の勝利に終わり、1923年にソビエト社会主義共和国連邦が成立することになるのですが、ロシアの経済はボロボロ。レーニンはそれに対応するための措置として新経済政策(ネップ)を実施するに至りました。

しかし、レーニンはこの頃から病に侵されていくようになり、次第に文字も書けなくなってしまいます。後釜を決めようとするのですが第一候補のスターリンとトロツキーはどちらも良いとはいえずなかなか後継者を決めません。

そうしている最中でレーニンは衰弱していきついに1924年に死去。後継者争いでトロツキーとスターリンが争うことになるのですが、結局スターリンが勝利し、スターリンがソ連の舵取りを行うようになっていくのでした。

スターリンの権力確立

レーニンが亡くなった後のロシアではスターリンが権力を握っていくようになっていきます。スターリンはこれまでの主流の考えで世界全体を社会主義国家にする世界革命論を主張したトロツキーなどを排除。一国社会主義論をかかげたスターリンがソ連のトップとなったのです。

スターリンはレーニンが行ったネップを完全否定してロシアを工業国に変えていきたいと考えていました。そこでスターリンは1928年に第1次五カ年計画に着手。

この第一次五ヵ年計画の途中に世界恐慌(1929年)が起こり、ソ連の経済はうなぎのぼり。

重工業に重点をおく工業化を推し進めていきソ連を世界の経済大国に押し上げたのでした。

一方農業の方はというと、土地と農具を農民が共同管理しそこでとれた農作物を分配するコルホーズや国家が管理し、農民に対して給料を支払うソフホーズなどを建設。

これによってソ連の農作物は効率化するかと思われましたが、この効率化によって農民の生産意欲は減退。1933年には大飢饉が起き、一説には1千万以上の被害者が出たとされています。

さらに、無理な工業化を推し進めたことによって国民が必要な食品や軽工業は全て無視。ソ連の国民は食品を求めて列を作るようになっていくのでした。

スターリンの大粛清

さらにスターリンの政策は止まりません。スターリン自身かなりの疑心暗鬼の心を持つ人だったため、スターリンは自身の権力を狙おうとする人を次々と粛清していくことになりました。

スターリンは1936年から1938年をピークに大粛清を行いスターリンに反抗するものを反革命罪として略式裁判を行った後に銃殺したり、強制収容所(ラーゲリ)での過酷な労働をさせたりするなど人道に反する行為を行い、一般的には100万人以上の人が犠牲となったとされています。

さらに、スターリンはロシア内戦で功績があった将校や将軍を次々と処刑。この赤軍大粛清によってロシア軍は大いに弱体化していくことになりました。

スターリンの拡張政策

スターリンはスターリン憲法と呼ばれる憲法を1936年に制定して、ソ連の脅威を少しでもなくしていくように尽力していきました。この結果ソ連は国際社会に復帰することができるようになり国際連盟にも加盟することになります。

一方で拡張政策も進めていき、日本とはノモンハン事件などで小競り合いを行なっていき、西側とは急激に領土を拡大していたナチスドイツと独ソ不可侵条約を締結してバルト三国を確保。さらには第二次世界大戦に突入するとソ連は東ポーランドを占領してまたフィンランドと冬戦争を行いました。

第二次世界大戦のロシア

こうしてソ連は拡張政策を行なっていきますが、冬戦争で決定的な勝利を得ることができなかったことはソ連の課題として重くのしかかることになります。

そんな最中でナチスドイツはソ連に対して侵攻を開始(バルバロッサ作戦)。スターリンはこの不意打ちで始まった戦争に対して意気消沈に陥ってしまい、一時期人前に姿を表さなかったそうです。

そんな中でもドイツ軍は次々と迫っていき、1941年の冬の前にはドイツ軍はモスクワと第二の都市であるレニングラード(サンクトペテルブルク)にまで迫ることになります。

スターリンはここに来てこの戦争のことを大祖国戦争と宣言して撤退する兵士は銃殺する勢いで徹底抗戦をすることを宣言。最終的にはスターリングラードの戦いで勝利を収めたことによって戦況は一気に逆転。

1944年には旧領も回復してさらにはベルリンも陥落。こうして第二次世界大戦はソ連を含めた連合国の勝利に終わったのです。

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