エカチェリーナ2世の治世
エカチェリーナ2世が即位したのち、エカチェリーナ2世はロシアの領土を広げながら改革を行っていくようになっていきました。エカチェリーナ2世はこの頃には珍しく啓蒙専制君主として知られており、ある程度の権限を国民に与えていくようになります(しかし、農奴制は継続。)
対内政策はプガチョフの乱を鎮圧し農奴制を継続。対外政策ではオーストリア帝国・プロイセン帝国とともにポーランドを3分割。ロシアはポーランド東部を獲得しました。
さらに、オスマン帝国との戦争(露土戦争)ではクリミア半島とコーカサス地方を獲得。南方に対してどんどん領土を拡張していくことになりました。さらにアメリカ独立戦争では武装中立同盟を結成し、そのついでとしてアラスカを獲得。日本とは千島列島に進出しながらもラクスマンを根室に派遣するなど貿易にも熱心に勤めることになります。
ロシアの飛躍とナポレオンとの対決
エカチェリーナ2世の時代にロシアは大幅に領土を拡張しましたが、時代の流れは革命の時代に突入していき、フランスではフランス革命が勃発。アレクサンドル1世はこのフランス革命に干渉するために対仏大同盟に参加。
一時期はアウステルリッツ三帝会戦で敗北したことで窮地に追い込まれますが、ナポレオンのロシア遠征の時にモスクワを焦土化する焦土戦術を使いナポレオンを撃退。ナポレオン没落のきっかけを作ることになります。
このことでロシアの国際的地位は大きく向上し、ナポレオン没落後のヨーロッパ処理の会議ウィーン会議では重要な役割を果たし神聖同盟の結成を主張。自由主義を徹底的に弾圧していき、ロシアの専制政治をなるべく守ろうとしていくことになりました。
ロシアの南下政策
最大の危機をなんとか乗り越えたロシアでしたが、ロシアの最大の悩みの種が広大な土地とその寒さでした。
ロシアの港は冬になると全て凍り、貿易することはできません。そこでロシアは一年中港が凍らない不凍港の獲得を目指していくことになります。
アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世は汎スラブ主義を唱えてオスマン帝国領に向かい侵攻を開始。いわゆるクリミア戦争が始まりましたが、この戦争にイギリスが介入したことによって一時期南下政策は頓挫することになります。
しかし、ロシアは諦めません。ロシアはオスマン帝国領への侵攻を諦めましたが、その代わりにこの頃著しく弱体化していた清に対して領土拡張を目指していくようになり、1858年にアイグン条約、1860年に北京条約を締結し、外満洲を獲得。ウラジオストックに港を手に入れようやく念願の不凍港を手に入れたのでした。
さらに、サンステファノ条約によってルーマニアなどが独立を果たすなど東欧にもその勢力を伸ばしていくことになるのですが、これはビスマルクによるベルリン会議によって阻まれることになります。
国内テロの増加
こうして対外政策は順調かと思いきや、この頃になると自由主義の波がロシアにも襲うようになり、ナロードニキ運動に代表される革命運動を起こしていくようになります。アレクサンドル2世は農奴制を解放して農民の自由農民としましたが、これによってかえって農民の生活を苦しめるようになり、アレクサンドル2世は爆弾を投げ込まれて暗殺。
その後を継いだアレクサンドル3世は無政府主義者を次々と弾圧していき、改革は一気にストップ状態となってしまいます。
しかし、そんな中でも革命運動は続けられていき、1898年にはレーニンによってロシア社会民主労働党が結成するなど社会主義者の活動もこの頃から活発化していくことになりました。
日露戦争と血の日曜日事件
何度も南下政策をイギリスのちょっかいによって邪魔をさせられたロシアでしたが、ニコライ2世が即位することにはモスクワからウラジオストックまで走るシベリア鉄道を完成させたりするなど極東方面に向けての進出を再び狙っていくことになります。
ロシアでは1894年に起こった日清戦争に清が負けたことによってロシアは日本が獲得した遼東半島を三国干渉によって返還させた後に遼東半島をロシアの租借地として分捕り、さらには大連といった都市をロシア風に変えていくことになりました。
しかし、この動きに危機感を抱いた日本とイギリスは日英同盟を結び、さらには1904年には日露戦争が勃発することになります。
ロシアは日本なんぞすぐに潰せると考えていましたが、意外や意外旅順が陥落したり、奉天会戦で敗北したりするなどジリ貧に陥ることに。さらにロシアご自慢のバルチック艦隊は日本海海戦によって完全壊滅。これによって日本の優勢に持ち込まれることになります。
戦争によって苦しい思いをした国民はこのていたらくをなんとかしようもデモ活動を行なっていくのですが、ニコライ2世はこのデモ活動を無理やり鎮圧し血の日曜日事件が勃発。
ニコライ2世は10月勅令を出してなんとか抑えるのですが、日露戦争の継続はもはや無理と判断したロシアは日本とポーツマス条約を締結。
ロシアの南下政策はここに潰えることになります。
第一次世界大戦とロマノフ王朝の崩壊
日露戦争以降、ロシアの政治は徐々にぐたぐたどなって行くことになりました。
特にニコライ2世の皇后は徐々にオカルトに嵌り出すようになり、出自も知らないラスプーチンという僧侶を溺愛していくようになります。
さらにラスプーチンが政治に口出しし始めたため、政治は大きく腐敗。そしてとどめを刺すかのように1914年から第一次世界大戦が始まることになったのです。
第一次世界大戦によってロシア軍はドイツ軍の策略に見事にはまりタンネンベルクの戦いで大敗北。その結果ロシアはドイツ軍に連戦連敗し、国民はロシアの体たらくをここぞとばかりに批判するようになっていきます。さらに国民の生活がどんどん苦しくなっていることを受けてついにロシアの首都サンクトペテルブルクで反乱が起こり、これがいわゆる二月革命へと動き始めるのでした。
二月革命によってロシア中で帝政の打倒が叫ばれ始めるようになり、これをついに抑えられなくなったニコライ2世は皇帝を退位することに決定。これによって300年続いたロマノフ王朝は崩壊するに至ったのです。