日本の歴史飛鳥時代

古代日本を動かした「律令制」とは?わかりやすく解説

壬申の乱と天武天皇の即位

天智天皇が亡くなった後、日本では大友皇子と大海人皇子との間で古代日本最大の内乱である壬申の乱が勃発することになります。正式な後継者である大友皇子の方が優勢かと思われたのですが、大海人皇子の策略によって大海人皇子方の大勝利に終わりました。そして壬申の乱によって即位した天武天皇は天皇中心の政治体制を目指すために681年に律令制定を命ずる詔を発令。天武天皇が生きている間にはに律令は完成することはなかったのですが、天武天皇の妻である持統天皇の時代に飛鳥浄御原令が成立することに。

飛鳥浄御原令は存在していませんが存在している歴史書を見る限り班田収授や戸籍などの地の律令につながる部分が多くみられます。

日本初の律令大宝律令について解説

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こうして天武天皇と持統天皇の時代に令の部分が制定されていきましたが、実質的な律令が制定されたのは701年の大宝律令の時でした。

大宝律令は刑部親王と藤原不比等が中心となって編纂していき、日本初の本格的な律令となっていきます。

日本初の大宝律令では律の部分と令の部分で細かく決められていました。この大宝律令の制定がのちの日本の政治のおおもとな流れとなっていくのですが、次はそんな大宝律令の制度について見ていきましょう。

律の部分

法律にあたる律の部分は細かく決められていましたが、それに当てはめる刑罰は

笞(細い棒でお尻や背を打つ刑罰)

杖(太い棒でお尻や背を打つ刑罰)

徒(懲役刑のこと 最大3年)

流(流刑のこと。この当時の都があった大和から近流・中流・遠流の3段階に分かれた。)

死(文字通り死刑のこと。絞首刑と斬首刑の2種類があった)

の5段階に分かれています。

ちなみに、お偉いさんはお金を国に納めれば八虐と呼ばれる重大犯罪をしなければ許されていました。

のちに死刑が風化して実質的に流刑が一番重い罪となるのですが、基本的にはこのまま平安末期までつづけられていくのです。

令の部分

大宝律令によって現在の内閣みたいな行政組織が作られていくことになります

天皇をトップとしてその下に朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官が置かれ、太政官には上から太政大臣(常任されるとはない)、左大臣、右大臣、大納言といった公卿と左右弁官局からなっています。

さらに太政官には八省と呼ばれる

中務省(天皇の詔勅作成担当。一番えらかった)

兵部省(軍事担当。現在の防衛省のような役割)

刑部省(裁判や刑罰担当。現在の法務省のような役割)

大蔵省(財政担当。現在の財務省のような役割)

治部省(外交を担当。現在の外務省のような役割)

民部省(戸籍の作成、民政を担当。現在の国税庁のような役割)

宮内省(天皇ら皇族の生活担当。現在の宮内庁のような役割)

式部省(役人の教育担当。現在の文部科学省のような役割)

からなっていました。

この中央機関のことを二官八省といいます。

さらに官僚の腐敗をチェックするために弾正台を設置。また軍事組織として五衛府も置かれました。

この二官八省は後に実務的な部分は衰退することになるのですが、権威的な部分は明治時代まで残ることになったのです。

地方行政

中央政府はこのようになっていきましたが、中央集権国家を形成するためには全国に天皇の力を及ばせる必要があります。そこで全国には都が置かれている畿内を中心に七道と呼ばれる地方区分をおくようになったのでした。

畿内というのは都が置かれている大和国を中心に大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の5つの国のことをさしていました。この畿内がのちの近畿地方となるのですが、ようするに首都圏のことです。

その周りに東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道とよばれる七道に分けられその下に国が置かれたのでした。

日本全国には66国がおかれ、それぞれ国司と呼ばれる現在でいうところの県知事が中央に納める税の徴収などを管轄することに。またその下に郡さらにその下に里を設けそれぞれ郡司・里長が置かれました。

ちなみに、国司は都から派遣された貴族が務め、郡司や里長は国司が地元の豪族から選んで任命していたのです。

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