税制度
律令国家における農民の税は多岐にわたっていました。この律令政治の税のことを租庸調と呼びます。
租は国民に与えられていた口分田1段につき二束二把の稲を納めるというものでした。二束二把は収穫量のおよそ3%にあたり、だいぶ低い税率ということがわかります。
庸は20歳以上の男性に都で労役に従事するものです。体が弱かったり、遠すぎて都までいけないという場合は労役の代わりに布や米を都に納入することになっていました。
調は17~20歳の男性に課されたもので正調と呼ばれる織物を納めるものです。しかし織物以外にも全国各地の物産も認められてその物産は都で売られていました。(ちなみに飛騨国は免除)
租などをみると一見すると軽く感じますが、庸と調は運脚と呼ばれる農民たちが全部自己負担で運んでおりかなりの重労働だったとされています。
また、租庸調以外にも雑徭といって国庁に60日間出向いて労働に従事したり、軍団・衛士・防人といった形で軍隊として徴収することもありました。
特に防人は大宰府(福岡県)の防衛のための組織のはずなのに関東地方の農民がよく当てられていたため移動するだけでも一苦労だったのです。
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律令制の衰退
一見いいかもしれない律令制の制度でしたが、時代が経つにつれてそのダメな部分があらわとなっていきます。
奈良時代中期に入ると租庸調の税が厳しいとして口分田が与えられていた農民たちがことごとく逃げてしまうという状態に突入してしまい、743年聖武天皇は仕方なく土地の保有を認める墾田永年私財法を制定することになりました。しかし、この墾田永年私財法によって日本の税収は崩壊。時代は荘園という新しい時代と入っていくようになりました。
一方で律令制なんですが、律令制自体も平安時代中期ぐらいに入るとほとんど崩壊しており、権威だけは明治時代まで続くことになるのですが政治的権力はほとんどなくなってしまうことになります。
律令制は日本初の本格的な政治制度であった
律令制によって日本の政治は大きく動き出していくことになります。残念なことにすぐにボロが出てしまいましたがそれでも日本独自の政治体制が築かれたのは重要な意義があったとされているのですね。