幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争悲劇の舞台となった「二本松城」歴史・見どころを歴史系ライターが解説

財政難との戦いだった江戸時代

二本松藩初代藩主となった丹羽光重は、二本松城の改修や城下町・農村の組編成の整備など民政のために尽力し、名君として慕われました。しかしその一方で幕府の命令による各種賦役の負担などにより、当初から財政難にあえいでいました。

現在でこそ立派な箕輪門が建っていますが、当時は簡素な冠木門しかなく、国主待遇の藩主の居城としては質素なものでした。光重の治世は1701年まで続きますが、それ以降の藩主たちにとってまさに苦難の時代だったといえるでしょう。

江戸三大飢饉といわれる享保・天明・天保の大飢饉はもれなく東北地方を襲い、二本松藩も例外ではありませんでした。幾たびかの藩政改革が行われるものの、それ以上に飢饉の影響は凄まじく、江戸時代中期以降になると財政は破綻状態に陥り、どんなに努力をしても立て直せるものではありませんでした。

荒んでいく藩士や領民の心を何とか立て直そうと藩校が作られ、制度改革も試みられました。今も藩庁跡に残る【旧二本松藩戒石銘碑】「藩士の戒め」を刻んだものですが、藩士たちにプライドを持たせたいとする藩主の願いが込められていると感じますね。

しかし二本松藩にとって財政破綻は藩政に影響を及ぼしただけに留まりません。それはやがて決定的な兵備の不足を招き、来たるべき戊辰戦争に暗い影を落とすのです。

二本松少年隊の悲劇

やがて徳川幕府が倒れ、時代は明治になります。戊辰戦争と呼ばれる戦いは東北地方へ飛び火し、会津藩と庄内藩を擁護する東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と対峙したのです。二本松藩も加盟していました。

1868年5月、新政府軍によって南の要衝白河城が落城し、何とか奪還を図りますがうまくいきません。そうしている最中にも周辺の棚倉藩、磐城平藩などが降伏。さらには三春藩が新政府側に味方するに及んで列藩同盟軍は不利な状況に追い込まれてしまいます。

さらに二本松藩はじめ東北諸藩はどこも財政難からくる兵備不足に悩んでおり、旧式の装備しか持たない部隊ばかりでした。新式銃を持つ新政府軍に対し、中には戦国時代さながらの火縄銃で交戦する藩士もいたそうですね。

好機と見た新政府軍は、会津への最後の抵抗ラインである二本松へ狙いを定めて進軍を開始したのです。当時の二本松藩兵の総数は2千ほどでしたが、そのうち半数以上を白河城奪回のために出しているため、旧幕府軍と合わせても1千ほどの兵力しかありません。かたや新政府軍の兵力は7千。その差は圧倒的でした。

危急存亡のときです。兵力不足を補うために藩は満13歳からの出陣を認めざるを得ません。戦況の不利を知った少年たちが重ねて嘆願したためでした。こうして13~17歳までの少年隊士たちが結成され、各隊に配属となったのです。

7月29日、奥州街道上や大壇口などで熾烈な戦闘が行われ、二本松藩兵が一時優勢になる場面もありました。しかし多勢に無勢。次第に戦線を突破された二本松藩は壊滅状態となり、その日のうちに二本松城も炎上し落城してしまいました。少年隊の人数も62名いたとされていますが、戦死者は14名、負傷者は7名を数えることとなり、二本松少年隊の悲劇として語り継がれているのです。

やがて降伏した二本松藩は石高を半減とされ、二本松城の多くの建物も消失してしまいました。

その後の二本松城

戊辰戦争によって荒廃してしまった二本松城ですが、1872年の廃城令がそれに追い打ちを掛けました。城内の建物はすべて取り壊され、石垣しか残っていなかったといいます。しかし翌年、三の丸跡に二本松製糸会社が設立されて近代産業における大きな役割を果たすことになりました。やがて双松館と名を変えて大正時代まで続くことになるのです。

やがて戦後の1949年に城域一帯が県立自然公園に指定され、霞ヶ城公園として親しまれることになりました。

城跡の発掘調査も平成に入ってから本格的に始められ、二本松城最古の石垣や建物跡、蒲生氏時代に築かれた石垣などが新たに発見されていますね。

1982年に箕輪門や高石垣が復元され、さらに1995年には本丸石垣の修復が完成して在りし日の面影を今に伝えていますね。そして2006年には国史跡に指定され、2007年になると日本城郭協会によって「日本100名城」の称号も与えられることになりました。まさに東北を代表する城の一つといってもいいでしょう。

ここは見てほしい二本松城のおすすめスポット

image by PIXTA / 38972794

ここからは実際に二本松城へ行って、絶対に見てほしいおすすめスポットをご紹介していきたいと思います。日本さくら名所100選にも選定されていますし、秋の紅葉も見どころの一つ。ぜひ参考にして頂きたいですね。

まさに二本松城を象徴する顔【箕輪門】

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baku13投稿者自身による作品, CC BY-SA 2.1 jp, リンクによる

丹羽氏初代藩主光重公が二本松城を大改修した際に造られた門です。まさに城の顔ともいうべき存在で、材料となる樫の木を手を尽くして求めた結果、領内の箕輪村にある山王寺のご神木を用いて造られたそう。

立派な櫓門は10万石クラスの大名の威容を表していますが、門と繋がっている二重櫓については古地図では描かれていなかったそう。しかし迫力ある高石垣と白い櫓門、二重櫓のコントラストは青空によく映えますね。絶好の撮影スポットではないでしょうか。

ちなみに現存している遺構ではなく、かつて戊辰戦争時の落城の際に焼け落ち、1982年に復元再建されたものです。

悲劇を今に伝える銅像【二本松少年隊群像】

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baku13投稿者自身による作品, CC BY-SA 2.1 jp, リンクによる

先ほどご紹介した箕輪門へ向かう坂道のたもとに鎮座していて、かつて戊辰戦争の際に故郷を守るため、若い命を散らせた少年隊士たちを顕彰しています。

1996年に二本松名誉市民でもある彫刻家・橋本堅太郎氏によって建立されました。

大砲、鉄砲、刀を携えて勇ましく戦う少年たちの姿とともに、わが子のために着物を繕う母の姿が対照的な構図になっています。なんとなく戦いとは何か?を考えさせられる場所でもありますね。

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明石則実