14代将軍・徳川家茂誕生!
Kawamura Kiyoo (1852-1934) – http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-1619.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
安政5年(1858)すったもんだのあげくに、一橋派との抗争に勝利して将軍になった徳川家茂ですが、当時は13歳ですから、本人的には「???」の世界だったのでしょうね。すれずに清く正しく美しく育っていきました。特に将軍になってからは文武両道に励んで、自分の趣味や楽しみは横に置いて、いい将軍であろうと努力する姿は幕臣を感動させたといわれてますよ。しかし若さ故に、一橋慶喜が「将軍後見職」とし就くことになったのですね。(和宮と結婚するまでは、田安家当主の「田安慶頼」)
皇女和宮との結婚!-その1-
「皇女和宮」は「孝明天皇」の妹で、弘化三年(1846)に「仁孝天皇」の第八皇女として生まれました。徳川家茂と同じ歳なんですね。生まれた時に父親の仁孝天皇がすでに崩御されていたといいますから、なんだか似たような境遇です。6歳の時に11歳年上の「有栖川熾仁(たるひと)親王」と婚約して、学問を有栖川宮家でしていたといいますね。そのまま有栖川宮と結婚していたら、明治維新の時に東征軍大総督(江戸を攻めてきた官軍大将)の奥さんでしたので、立場は全く逆だったわけですよね。
日米通商条約など、外国嫌いの孝明天皇の意向を無視していた幕府は国が混乱するのを避けるため「公武合体」という形をわかりやすく知らしめるために、将軍である徳川家茂と和宮との結婚を要請します。孝明天皇は「有栖川宮と婚約しているから無理。生まれたばかりの姫ならば承諾してもいい」と断りますが、幕府は執拗に迫ったのですよ。とうとう朝廷側も折れて「10年以内に元の鎖国状態に戻すのなら」という条件で、和宮は婚約破棄をして嫁ぐことになったのですね。
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皇女和宮との結婚!-その2-
驚いたのは和宮ですよね。将軍やら東国といったら厳つく荒々しい武士しかイメージがなかったでしょうし断りますが「断ったら橋本実麗(伯父)・観行院(母)を処罰して、孝明天皇は譲位する。有栖川宮との結婚も許さないので尼になれ」と言われては泣く泣く承知するしかなかったのでした。
孝明天皇は和宮を内親王宣下(明治以前はすべての皇女に称号が与えられなかったので、正式に認定すること)をして、正式名は「和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)」となったのです。他にも孝明天皇は「降嫁をしたからといっても、普段の生活は御所風にすること」などの条件を幕府に突きつけます。一緒に住んでいるわけでもないものの、やはり不憫な妹に精一杯のできることをやったのでしょうね。
文久2年(1862)2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われます。天皇家からの降嫁ということで和宮が上座という異例の式だったそうですよ。そこで初めて2人は出会うわけですが、ゴツい大男だと思っていたら公達のような徳川家茂だったので驚いたようですよ。
政略結婚ではありましたが、何事かが起きた時は常に和宮の味方になってかばう誠実で優しい徳川家茂に心を許すようになり、2人は仲の良い夫婦となっていきました。徳川家茂が上洛する時などは、増上寺で本尊を勧請してお百度を踏んだといいますよ。一緒にお菓子とか食べていたかもしれませんね(徳川家茂の歯はほぼ虫歯だったという)。
徳川家茂の上洛
文久3年(1863)、徳川家茂は将軍としては229年ぶりとなる上洛を行っています。同行したのは老中「水野忠精」「板倉勝静」、若年寄「田沼意尊」「稲葉正巳」など、3千人を率いての大行列ですね。道は東海道。この将軍警護という名目で江戸中の剣客・浪人たちを集めた「浪士隊」というものが結成されました。これが「新選組」の母体となるんですね。浪士隊は中山道を通りますが。浪士隊を作ることを進言したのは「清河八郎」で本当は自分の兵隊を作るための策謀ではありましたが、ある意味では大騒ぎの浪士隊結集だったので、狙撃しようとした者達への目くらましには少しは役に立ったのかもしれません。
孝明天皇と徳川家茂の関係は?
徳川家茂は京に到着してからの3月7日に御所に参内しました。その時に「攘夷の約束」「政務委任の勅命への謝辞」をします。実はそれまでの幕府の政務は事実上されてはいたのですが、正式に天皇から委任されていたのではなかったんですね。これは少し驚きました。
その後の徳川家茂の行動は、天皇の「賀茂神社」の参拝に一橋慶喜たちと一緒に同行。朝廷より将軍の地位が下だと示すために馬上から同行したといいます。天皇が公式に237年振りに御所から出るという異例なことだったのですよ。「岩清水八幡宮」にも同行する予定でしたが病になったと欠席していますよ。
賀茂神社参拝の時に天皇を雨の中で待ったために体調を崩したとも、源氏所縁の神社の神前で天皇からの譲位を命じられるのを回避したともいわれていますね。そのために徳川家茂の殺害予告がされたり、陸路で先に帰った一橋慶喜が途中で襲われたりしていますよ。
孝明天皇は徳川家茂をとても気に入って江戸に帰してくれず、しびれを切らした老中格の「小笠原長行」が軍艦と兵1400を率いて大坂に向かって朝廷と尊王攘夷派を威圧したことにより、ようやく3ヶ月ぶりに帰ることができたのですよ。
勝海舟との出会い
徳川家茂は、大阪にやってきた「軍艦・順動丸」に乗って攘夷の下調べをしたといいます。その順動丸の指揮をしていたのが「勝海舟」だったのですね。勝海舟は、徳川家茂自ら軍艦の説明をすすんで聞かれて説明をしていくうちに、それまで持っていた「日本の海軍の必要性」を熱心に述べることとなります。
アメリカだけでなくイギリスやロシアなどからも開国をせまられ、勝手に湾内に入ってきて測量されたりと、いつ攻め込まれるかわからない海に囲まれた日本を護るためにも、海軍の重要性を理解した徳川家茂は、即座に「軍艦操練所」の設立を許可しますよ。これが「坂本龍馬」など幕末に活躍した人が集まった「神戸海軍操練所」となり、日本海軍の母体となったのですね。
当然のことながら「将軍に直接意見を申すなどとんでもない奴だ」とまわりは大批判・大激怒の嵐でしたが、そんなこと気にもしない勝海舟は、即断できる徳川家茂に惚れ込んでしまったのですね。そして陸路で帰った一橋慶喜が途中で襲われたことから海路で帰ることになりました。
それ以後の上洛も海路をとることになり、周囲は「海が荒れて沈没でもしたら大変だ」と大反対しますが、徳川家茂は「海上のことは(プロの)軍艦奉行に任せる」と言ったものですから、勝海舟は大感激して「一生あなたについていきます」と忠誠心を燃やしたことでしょうね。
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