徳川家茂の死去
元治元年(1864)、徳川家茂は「公武合体」の実現のために再上洛しましたが、成果を得られないまま江戸に帰ります。京は「禁門の変」を発端にした長州の暴走で大混乱となり「第一次長州征伐」が行われた年でもあったからですね。それどころではなかったのですよ。そして運命の「第二次長州征伐」が慶応元年(1865)に勃発してしまったのですよ。
長州征伐
原因を順序立てていっていくと、文久3年(1863)8月18日に、孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府を支持していた勢力が、当時朝廷を牛耳っていた長州藩を後ろ盾に過激尊皇攘夷派を追放した「八月十八日の政変」からはじまります。結局は長州藩に取って代わろうとした薩摩藩との衝突ともいえるものですね。
元治元年(1864)7月19日に、長州藩は自分たちを排除した会津藩主・京都守護職「松平容保」たちを逆に排除しようと挙兵して京に攻め込みます。これが「禁門の変」ですね。ここでも薩摩藩は幕府と共に戦っていますよ。「朝敵(朝廷の敵)となった長州藩を征伐するように」と幕府に勅命が下りました。そこで起きたのが「第一次長州征伐」これは長州側が家老を切腹することで終わります。その時の総督は尾張藩主「徳川慶勝」でした。
慶応元年 (1865) 年、高杉晋作らによって長州藩の恭順派が一掃されて再び倒幕派が中心となります。そのために幕府との和平交渉打ち切りということになりました。そのために「第二次長州征伐」が布告されることになったのですよ。この時には「薩長同盟」がなされていて、最新武器が坂本龍馬の「亀山社中」の仲介により入手されていた長州藩と、戦う気が全くない薩摩藩という戦局となります。幕府の威信にかけても負けられないため、今回は徳川家茂みずから指揮をとることになり、慶応2年6月開戦となったのですね。
こちらの記事もおすすめ
未完の大器高杉晋作!彼がいなければ明治維新はなかった! – Rinto~凛と~
突然の死
徳川家茂は大軍を引き連れ、かつて「徳川家康」が使ったという金の馬印を掲げて上洛します。しかし大阪で病のために倒れてしまったのですよ。驚いた天皇は朝廷の医局である「典薬寮」の医師を2人派遣していますよ。もちろん江戸城から御典医たちがたくさんやってきました。しかし医療の甲斐もなく、7月20日亡くなってしまったのです。享年21歳。若すぎる死でした。
死因は「脚気」といわれていますね。江戸時代は雑穀米や麦飯から白米を主に食べる習慣になっていて、脚気で死ぬ人が多かったのです。今でもジャンクフードを多く食べるために増えている病気ですよ。意外と怖いので皆さんもビタミンB1をたくさんとってくださいね。ちなみに西洋医学の医師は「リュウマチ」と診断しているそうです。死体が黒ずんでいたことから「暗殺説」もあるようですね。
遺体は「長鯨丸(イギリスから購入)」に乗せて9月2日に大坂を出航して、6日に江戸に到着しました。遺体と同時に、江戸を出発する時に和宮に「おみやげはなにがいいですか?」と聞いて「西陣織が欲しいです」と言った西陣織も一緒です。和宮の嘆きは深く「惜しましな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」という歌をよんでいます。
遺言で「次の将軍は、田安亀之助に」と残していましたが、15代将軍は一橋慶喜改め「徳川慶喜」となり、将軍でなくなった徳川宗家の16代に田安亀之助がなりました。そのため今でも東京の皇居の地主は田安家だということです。
歴史に「if」はないものの
若くして将軍になった徳川家茂。その誠実な姿はまわりから「徳川吉宗公の再来か」と言われていたそうですよ。徳川家茂も「名君だった徳川吉宗のようになろう」と頑張ったのですね。勝海舟のような新しい考えも柔軟に受け入れて即断できた徳川家茂。勝海舟ではないですが「長生きしたら名君と呼ばれただろう」という言葉もうなずけますね。