降りかかってきた改易処分!その時、藩士たちは?
藩が改易処分を受けると、藩主の家名は旗本という形で存続というパターンが多いようです。しかし幕府から居城受け取りの上使がやってくるまで、やらなければならないことが山積しています。
勘定役の上級藩士は、商人たちと交わした藩札(いわゆる約束手形)の整理をしなければなりません。藩が改易になれば藩札など紙切れ同然となりますから、多くの商人たちが借金を踏み倒される結果になりました。ちなみに忠臣蔵で有名な大石内蔵助は最後まで「藩の体面に関わる」として、額面の6割で回収したそうです。
そして城を引き渡すと同時に、調度品や武具などの目録が付けられ、次にやってくる藩主のために整理整頓が為されました。
また藩士たちには幾ばくかの退職金が支払われ、それぞれ城下を後にします。縁故を頼って他所へ行くものもいますし、生活がしやすい大都市へ向かう者、行き所がなくてそのまま放浪する者など様々でした。
やがて城を受け取る収城使がやってくることに。城の引き渡しを拒むパターンも考えられるため、兵を率いて向かうことも多かったようです。実際、備中松山藩では藩士たちの抵抗も起こったそうで、収城使はまさに命がけだったといえるでしょう。不測の事態に備えて、国境付近に近隣諸藩の軍勢が待機することがたびたびあったとも。
いずれにしても城受け取りの後は、次の藩主がやって来るまで近隣の大名が預かることが多かったそうです。
改易後の元藩士たちはどうなった?
改易後の事務処理も終わり、退職金を手にした元藩士たち。いわゆる浪人となったわけですが、再就職もままならない彼らはどのように世間を渡っていったのでしょうか?具体的にその後の足取りを追っていきましょう。
一般の浪人には狭き門だった再仕官への道
戦国の気風が残る江戸時代初期なら、腕に覚えがあって武名が高い者は引く手あまたでした。どこの大名も良き戦力になりそうな武勇に優れた浪人を欲しがったものです。
しかし社会が安定して、もはや戦いが起こらない時代になると、戦うしか能のない者は不必要になりました。経理に明るかったり、土木建築に精通するなど特殊な技量を持つ者がもてはやされたのです。
ですから改易によって職にあぶれた浪人が再仕官しようとしても、どこの藩も簡単には雇ってくれません。人よりここが優っているというストロングポイントがなければ箸にも棒にも掛かりませんし、何よりさらに門戸を狭くしたのは各藩の財政難でした。そう、お手伝い普請や参勤交代といった経済的負担が各藩に重くのしかかり、新規に藩士を雇うどころではなかったということです。
浪人に関していえば、幕府の身分政策によって苗字帯刀が許されるなど、とりあえず身分の保障は為されてはいました。しかし、肝心の収入源である藩じたいがなくなってしまえば経済的に困窮するのは当たり前のこと。そんな浪人たちが江戸や大坂、京都などにあふれかえっていたそうです。
退職金を元手に商売を始めるパターン
藩から支給された退職金を元手に商売を始める者は多かったそうです。赤穂浪士四十七士の磯貝十郎佐衛門もその一人で、退職金を使って江戸の新橋で酒屋を開き、密かに仇討ちの機会を狙っていたそう。
また中流クラスの藩士ですと退職金もそれなりに出ますから、金融業に手を出す者もいました。いわゆる金貸しですが、次第に困窮し始めた旗本・御家人クラスの武士たちに金を貸し付けて高利を貪る者も現れ、藩士時代とは比べ物にならないほどの豪奢な生活を送っていたとも。
しかし元々経済に疎い武士が、慣れない商売を始めようとも成功する例は稀だったそうです。多くは失敗して借金を重ね、最後はどうにもならなくなる事例が多発しました。
同じような状況は明治時代初めになって起こっていますね。特権を失った士族が慣れない商売を始めるものの失敗続き。しょせんは「士族の商売」に過ぎないと嘲笑されたことと重なりますね。
腕に覚えがあれば、用心棒になることも
時代劇などでは悪徳商人の護衛をする素浪人がよく登場しますが、それなりの剣の腕前があれば大店や農村などの用心棒として雇われることもありました。
とはいえ用心棒だからといって問答無用に剣を抜いて人を殺めることは許されません。「切り捨て御免」の特権は、もちろん武士身分である浪人にも認められていましたが、不可抗力だったという証人も必要になりますし、それに伴う詮議も厳しいものでした。まかり間違えば過失責任も問われますから、リスクと表裏一体だったといえるでしょう。
早い話が用心棒というよりも警備員と呼んだ方が良いかも知れませんね。現代でも元警察官の方が多く警備会社に就職していますし、似たようなところがありますよね。
芸術・文芸方面で活躍
この時代の芸術家や文芸家のうち、浪人出身だった人も数多くいます。俳句で有名な松尾芭蕉は伊賀上野藩士の家来でしたし、浄瑠璃で名声を博した近松門左衛門も浪人の子でした。エレキテルで有名な平賀源内も高松藩に仕えていた元藩士だったとされていますね。
幼い頃からそれなりに芸術に対する知識や博識があり、理解のある家の出身であれば芸術・文芸への道も開けたことでしょう。しかし、元々のパイが少ないだけに、こういった道も狭き門だったといえるでしょう。
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