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日本語に革命をもたらした明治人「二葉亭四迷」を解説!言文一致体誕生の秘密とは?

『浮雲』以後の二葉亭四迷

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

わずか23歳で偉業を成し遂げた二葉亭四迷。その後の彼の人生を追っていきましょう。二葉亭四迷は『浮雲』を未完に終わらせてしまいました。教科書を見ても書店や図書館へ行っても、二葉亭四迷は『浮雲』以降イメージがパッとしない、そんな人も多いのでは?二葉亭四迷という人物はひょっとしたら小説家ではなく、言葉を扱う文体の人、という見方が正しいのかもしれません。彼の後半生をたどりましょう。

ロシア文学者としての二葉亭四迷

20年近く小説から離れた二葉亭四迷。その後の彼はどのような人生を送ったのでしょう?1895(明治28)年には陸軍大学校の露語科の教員に、1899(明治32)年再設立された東京外国語学校のロシア語教員に、そして1901(明治34)年には海軍大学校の露語教職にと、ロシア語の教師として活躍しました。

二葉亭四迷は翻訳者としても優れた人物。19世紀ロシアの文豪ツルゲーネフの作品はじめロシア写実主義小説作品を日本語訳し、その細やかな自然描写や日本語は多くの人に衝撃を与えました。また、人工言語エスペラント語をマスター。彼はエスペラント語の入門書をのちに出版しています。

1904(明治37)年に二葉亭四迷は東京朝日新聞に入社。スカウトしたのは夏目漱石などの逸材を集めサポートした名編集者・池辺三山です。東京朝日新聞で二葉亭四迷は小説を連載することになります。『其面影』『平凡』などの連載新聞小説は大ヒット!この時代の東京朝日新聞はまさに最初の黄金期でした。夏目漱石、森鴎外、島崎藤村。いつでも新聞を開けば最高級の文豪の最新作を読めたなんて、なんてぜいたくな時代だったのでしょう。

ロシアに病み、ベンガル湾に死す

1908(明治41)年、朝日新聞特派員としてロシアに派遣された二葉亭四迷。しかし赴任先のペテルブルグで白夜、すなわち北国の夏の一日中照り続ける太陽に心身を滅入らせます。一方でこのロシア滞在中に二葉亭四迷は、翻訳家として日本の作品を広める仕事をしました。森鴎外『舞姫』国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』などを露語翻訳します。

白夜による不眠症と、肺結核をわずらった二葉亭四迷でしたが、ウラジーミル大公の葬儀のために雪の中、ずっと立ちっぱなしだったことが弱った体に致命的な打撃を与えました。死の病を得た彼は友人に説得され、帰国の途につくことになります。

しかし彼が日本の景色をふたたび眼にすることはありませんでした。1909(明治42)5月、熱い陽射しが注ぐインド洋ベンガル湾の船上で、二葉亭四迷は肺炎を悪化させ、命を終えます。満45歳での死でした。彼の遺体はシンガポールで荼毘に付され、遺骨は日本に送られましたが、シンガポール日本人墓地にも墓があります。

日本語のあり方を変えた文学者・二葉亭四迷

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二葉亭四迷は、夏目漱石や森鴎外のような小説家ではありません。ストーリーテリングで読者を魅せ、人間や社会を描くような作家ではないのです。『浮雲』の目的は、書き言葉の新しい文章を作り上げること。その後の人生を見ても二葉亭四迷は、小説ではなく言語の人です。書き言葉を変革した二葉亭四迷は『浮雲』を物語として完結させることができませんでしたが、彼の存在がなければその後の日本文学の興隆はなかったのではないでしょうか。偉大な人物です。

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