日本の歴史鎌倉時代

【鎌倉幕府】名君と呼ばれた「北条時頼」どんな人だった?わかりやすく解説

北条時頼は禅にはまる

鎌倉時代というと鎌倉仏教という天台宗から派生した新仏教が盛んになりました。その中で北条時頼は「禅」に心ひかれていきます。さっそく曹洞宗の宗祖である「道元」を招いて法話を聞いたのですね。感銘を受けた北条時頼は「寺を寄進する」と申し出ますが断られてしまいます。そのかわりというのかどうかわかりませんが、宋からやってきた「蘭渓道隆」に帰依して「建長寺」を創建していますね。

余談ですが、道元の弟子が断ったのを知らず「寺を執権様から寄進してもらえる」と言いふらして、怒った道元がその弟子を破門にして、いつも座禅している板をはずし、その下の土まで掘り返すという後日談までありますよ。潔癖症の道元らしいエピソードですね。

最明寺入道誕生!

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不明 – The Japanese book “Treasures of Kamakura (鎌倉の秘宝): Special Exhibition”, パブリック・ドメイン, リンクによる

康元元年(1256)3月、連署の北条重時が辞任して出家(以後は極楽寺殿とよばれる)。そこで秘密の寄り合いのメンバーだった重時の弟の「北条政村」が連署なります。9月に当時流行していた麻疹にかかりますが快復。しかし立て続けに今度は赤痢にかかってしまいました。

小康状態まで快復した北条時頼は、執権職を北条重時の息子の「北条長時」に譲りました。まだ嫡男の「北条時宗」が幼かった(6歳)からですね。長男ながら側室腹の「北条時輔」は、その年の8月に元服していたのですが除外な話です宗尊親王といい、なんだか切なくなりそうな話ですね。とはいえ、北条長時も北条時宗が成長するまでの「つなぎの執権」ということなので、こちらも微妙な立場ですよね。

11月23日、北条時頼は「最明寺」で出家(以後は最明寺入道・最明寺殿とよばれる)しました。

実権は持ち続ける北条時頼

執権は北条長時に譲ったものの、実権は相変わらず北条時頼と北条重時が持ち続けます。朝廷の院政と同じですね。これによって執権・連署という形も崩れてしまって、得宗家の専制政治が確立してしまったのですね。

北条時頼が出家した後に、水戸黄門のように諸国漫遊したという伝説があります。水戸黄門同様に各地に家来を変装させて、その土地土地の事情を調べたのでしょうが、名君伝説の元となり『増鏡』や『太平記』などで紹介されていますよ。いずれも困った人に手をさしのべて助けたという話ですね。

あるボロボロの家に旅のお坊さんが一夜の宿を頼みました。奥さんは旦那さんがいないので断ったのですが、帰ってきた旦那さんは追いかけていってお坊さんを家に泊めてくれます。暖を取る薪がなくなった時に、立派に育てた盆栽を切って囲炉裏に入れました。

驚いたお坊さんは「あなたは1体どういう方なのですか?」と聞きます。旦那さんは「元々はここの領主でしたが、親戚達に財産を取られて貧乏暮らしをしていますが、鎌倉でなにかが起きた時は『いざ鎌倉!』とはせ参じるつもりです」と答えました。

しばらくして、北条時頼が全国の武士達に鎌倉へ来るようにとふれを出します。旦那さんはみすぼらしい武具をつけながらも鎌倉へと行きました。並み居る立派な武士を差し置いて旦那さんは呼ばれます。旦那さんはみすぼらしい姿を怒られるかと思ったら「よく来られた!立派な忠臣である」と褒められました。そのお坊さんは北条時頼だったのですね。おかげで領地も元に戻してもらったのですよ。

北条時頼と日蓮

北条時頼といえば、日蓮が幕府に提出した『立正安国論』でも有名ですね。「正しい信仰をして日本国中の人がひとつにまとまらないと、この国は滅びる」というものです。この内容で一番批判されたのは阿弥陀信仰でした。仏教の元である釈迦牟尼仏を捨てて阿弥陀如来にすがるのは何事か!ってことですね。北条時頼はこれに対しての反応はありません。しかし執事の「宿屋光則」などは日蓮の信者になっていますので、まんざら悪い印象ではなかったのかもしれません

しかし幕府のナンバー2の北条重時は、熱心な念仏信者であったために郎党や念仏信者をつかって、日蓮の住む庵を焼き討ちにしたり、処分を求めてきました。一説によると、執権である自分の息子の北条長時を無視して北条時頼に出したからだとも言われてますね。そこで伊豆流罪を申しつけます。しかし北条重時が亡くなったら赦免させているので、北条重時対策だったという説はあたっているのかもしれませんね。

北条時頼の最期とその後

弘長3年(1263)11月8日。『吾妻鏡』に時頼の病気が悪化したと書かれた記事があります。病気快復の祈願や祈祷が行なわれますが、11月19日には危篤となりました。11月22日戌刻(午後8時頃)、時頼は臨終を迎えるために、最明寺北亭ら移って袈裟衣を来て座禅を組んで息を引き取ったといわれていますよ。静かな臨終だったのですね。享年37歳といいますから、当時の平均寿命が40~50歳あたりとはいっても、若いですよね。

その後の鎌倉幕府は、中国だけでなくヨーロッパまで、ユーラシア大陸を手中にしていた「元」が攻めてきて戦になる「元寇」「蒙古襲来」という大戦争が起こります。それが原因で鎌倉幕府の滅亡になっていくのですが、それはまた別のお話ですね。

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紫蘭