イギリスヨーロッパの歴史

中東混迷の原因を作った「バルフォア宣言」イギリスの3枚舌外交を元予備校講師がわかりやすく解説

バルフォア宣言

戦局が連合国に傾く中、イギリスのロイド=ジョージ内閣で外相を務めるバルフォアは、ロンドンのユダヤ人銀行家であるロスチャイルドにパレスチナでのユダヤ人国家建設を約束する書簡を出します。

ロスチャイルドはユダヤ人の独立国家をパレスチナに作ろうというシオニズム運動の代表でした。イギリスがバルフォア宣言を出した理由は、ロスチャイルド家の協力を得ることでユダヤ人資本の支援を取り付けること。ロスチャイルドは書簡を公表しました。

イギリスは先に結んでいたフサイン・マクマホン協定やサイクス・ピコ協定と矛盾する内容のバルフォア宣言を発表することで、大戦後に起こるパレスチナ問題の原因を作り出したといってよいでしょう。

第一次世界大戦後の中東

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1918年11月、第一次世界大戦はオーストリア・ドイツの降伏により、ようやく終戦となりました。この戦争によりオスマン帝国は崩壊。大戦後のセーヴル条約でアルメニアやヒジャーズ王国の独立やイギリス・フランスによるアラブ地域の委任統治が定められました。相互に矛盾する三つの協定により、戦後の西アジアは混乱。特に、パレスチナ人とユダヤ人が混住したパレスチナでは暴動が頻発するようになります。

英仏による中東地域の分割とハーシム家の懐柔

第一次世界大戦終結後の1920年8月、イギリス・フランスなどの連合国はオスマン帝国とセーヴル条約を結びました。イギリス・フランス両国はサイクス・ピコ協定に基づき、おオスマン帝国領のアラブ地域を分割します。

その結果、シリアやレバノンはフランスの委任統治領に、イラク、トランスヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治領となりました。これに不満を持ったのがアラブ民族です。シリアでハーシム家のファイサルが独立を宣言しましたが、シリアを支配するフランスは独立を認めません。

アラブ人たちを懐柔するため、イギリスとフランスは協議。ハーシム家3男のファイサルをイラク国王、ハーシム家2男のアブドゥラをトランスヨルダン国王とすることで不満を抑え込みます。

サウジアラビアの建国

イギリスは、フサイン・マクマホン協定でメッカのハーシム家を支援し、アラブ国家樹立を支援すると約束していました。その一方で、リヤドを支配していたサウード家イブン=サウードに対しても、支援の約束をします。

第一次世界大戦の終結によりオスマン帝国問う共通の敵を失ったハーシム家とサウード家はアラビア半島の覇権をめぐって争いました。

1924年、フセインがカリフを自称したことから両勢力の対立は決定的となり、イブン=サウードはフセインのヒジャーズ王国を攻撃します。

イブン=サウードはイスラム教改革派のワッハーブ派を信奉する強力な軍団(イフワーン軍団)の力でヒジャーズ王国を粉砕。1932年にサウジアラビア王国の建国を宣言しました。

パレスチナ人とユダヤ人の混住と混乱

イェルサレムを中心とするパレスチナ地域には、ユダヤ人とアラブ人が共存していました。イスラム教においてユダヤ教徒は「啓典の民」として存在を認められていたからです。

両者の対立が決定的となったのは19世紀の末。イェルサレムのシオンの丘にユダヤ人の独立国家を作るというシオニズム運動が盛んになってからです。バルフォア宣言を出させたユダヤ人は、パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとしました。

宣言を受けて、世界各地に離散していたユダヤ人たちがパレスチナに集まり始めます。第二次世界大戦中、ナチス=ドイツの迫害から逃れるため、多くのユダヤ人たちがパレスチナに移住したことで緊張がさらに高まりました。

結局、両者の対立は解消せず第一次中東戦争を経てパレスチナにイスラエルが建国されるに至ります。

「バルフォア宣言」とフサイン・マクマホン協定という矛盾した協定が中東紛争とパレスチナ難民を生み出した

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1948年から1949年にかけて、アラブ諸国とイスラエルは第一次中東戦争を戦いました。この戦争に勝利したイスラエルは領土を拡大。イスラエル占領地域にいたアラブ人たちは故郷を追われ難民となりました。これが、パレスチナ難民ですね。以後、パレスチナ地域の支配権をめぐって第二次、第三次、第四次の中東戦争が勃発します。パレスチナでは、現在も多くの難民が故郷に帰還できていません。この悲劇の温はバルフォア宣言などのイギリスの外交によるものでした。覇権国による罪深い駆け引きだったのではないでしょうか。

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