イギリスとフランスの植民地戦争はその後も続く
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イギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ大国はその後も植民地の拡大にまい進し、アフリカの植民地化の競走が始まります。1885年にベルリン会議がおこなわれ、そのとりきめにしたがって各大国はアフリカ全域で植民地化を開始し、リベリアとエチオピアを除く地域は植民地化されたのです。その中でも、南北に展開するイギリスと東西に展開するフランスは多くの地域を植民地化し、両者は南スーダンのファショダ村で衝突することになりました。
アフリカではヨーロッパ大国の植民地化の爪痕によって地域紛争が絶えず
これらのアフリカの多くの国々は、第二次世界大戦後の1960年にようやく独立し、植民地支配から脱しました。そのため、1960年は「アフリカの年」といわれています。しかし、現在でもスーダン、コンゴなど多くの地域で民族紛争が絶えません。多くの感染症も起こっています。これは、植民地の本国であったヨーロッパ大国の利権確保が優先された独立で、植民地単位での独立になり、民族単位での独立にならなかったことが原因となっていました。ミャンマーにおける少数民族ロヒンギャに対するミャンマー軍の排撃も同じ構図になっているのです。
プラッシーの戦いは、ヨーロッパ大国の植民地争いの端緒になったものですが、その後200年近くアジア、アフリカの国々は植民地支配を受けました。日本も20世紀に入ると同様に東アジアでの植民地支配をおこなっており、その反省は現在までおこなわれていません。
プラッシーの戦いの反省を
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プラッシーの戦いは、ヨーロッパ大国の植民地化戦争にともなって起こっており、発展途上国の民族自決を阻害した例といえます。その爪痕は世界中に残っており、先進国はそれらの国々の犠牲のもとに現在の繁栄があることを忘れてはなりせん。私たちは、やはりプラッシーの戦いをはじめとした植民地戦争を反省する必要があるのです。トランプ大統領の自国ファースト政策は過去の発展途上国への悪業を考えれば、とんでもない勘違いといえるでしょう。