イギリスヨーロッパの歴史

イギリスのインド支配を確立した「プラッシーの戦い」とは?わかりやすく解説

カルカッタが必要になった理由

このころ、イギリスは中国の南部港湾都市との交易をおこなうようになっていました。中国の清王朝は、鎖国をして貿易を禁じていましたが、その取り締まりは緩く、民間ベースで取引に応じる商人が多かったのです。インドの綿花をイギリスで綿製品に仕上げて中国に販売し、中国からは絹織物や陶磁器、中国茶等を輸入するという三角貿易を増加させ、力を入れようとしていました。そのためには、インド東部の商業の中心であり、集積地でもあったカルカッタ(コルカタ)は是非とも必要であったのです。

インド東部へのフランスの進出

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一方、フランスは、インドシナ半島から進出を開始し、17世紀末にインド東部のカルカッタに植民地を建設して、18世紀はじめ頃はこの地域ではイギリスに対して優位に立ち、圧倒していました。当時のインド東部のベンガル、カルカッタも綿花、絹などの集積地になっており、アヘンなどの集積地でもあったのです。そのため、イギリスとフランスの対立の最前線になっていました。

ムガール帝国の衰退とベンガル太守の独立

一時はインド大陸の北半分の全域を支配していたインドの最強国であったムガール帝国は18世紀頃から衰退に向かい、イギリスなどの侵略を受けるようになっていたのです。

ムガール帝国は以前からインド東部のカルカッタ地方にはベンガル太守を設置し、支配していました。しかし、力を持っていたアウラングゼーブ皇帝が1707年に亡くなったあと、帝国は分裂状態に陥り、その混乱のなかでベンガル太守は実質的に独立したのです。

なお、アウラングゼーブ皇帝が妃のために建設したのが、世界遺産にも登録され、非常に美しい寺院として有名なタージ・マハルですよ。

ベンガル太守の独立騒動の中で起こったプラッシーの戦い

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イギリスは、アウラングゼーブ皇帝が亡くなり、ベンガル太守が独立したのをきっかけにベンガル地域での活動を活発化して、ベンガル太守と軍事衝突を繰り返すようになります。その結果、ついにプラッシーの戦いに発展していったのです。当初はイギリスとベンガル太守の戦いでしたが、フランスは七年戦争もあり、ベンガル太守側に立って戦いに加わりました。

プラッシーの戦いとはどのような戦いだったのか?

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イギリスとベンガル太守・フランス連合軍はどのような戦いを展開したのかを見てみましょう。そのきっかけから見ていきます。

ベンガル太守とイギリス東インド会社とのいざこざ

1756年にイギリス東インド会社のベンガル拠点のウィリアム要塞(城塞)を、イギリスに不満を持つベンガル太守であったシラージュ・ウッダウラが占拠したことから騒動が拡大します。この占拠に対してイギリスはフランスに支援を要請しますが、フランスが支援要求を断ったため、イギリスの東インド会社は孤立してしまいました。そのため、カルカッタの拠点であったウィリアム要塞は陥落し、ベンガル太守側が占拠することになったのです。フランスはそれ以前に、七年戦争でイギリスご戦争状態にあったことから、インドのムガール帝国やイギリスに宣戦布告していました。

そして、占拠されたウィリアム要塞では、イギリス人捕虜が牢獄内で多数死亡するブラックホール事件が起来たのです。

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