イギリスヨーロッパの歴史

イギリスのインド支配を確立した「プラッシーの戦い」とは?わかりやすく解説

ベンガル太守側の内紛とイギリスのカルカッタ奪還

image by iStockphoto

ブラックホール事件に怒ったイギリスは、マドラスから東インド会社の軍隊やセポイ(シバーヒー)といわれるインド人雇い兵を援軍として送り、イギリスの東インド会社はカルカッタを奪還します。そしてベンガル太守との戦争に備えました。一方で、ベンガル太守側では、イギリスに利権につられて寝返る勢力が出てきます。ベンガル太守側の情報はイギリスに筒抜けになってしまったのです。

プラッシーの戦いが始まる

1757年6月に、フランスと手を結んだベンガル太守側はカルカッタの北方にあったプラッシー村でついにイギリス軍と交戦に入りました。ベンガル太守側の兵士は62,000人でしたが、そのなかにはすでにイギリスと通じている勢力(50,000人)があり、実際には戦いに参加しなかったのです。それでもフランスの重砲機があるのに対して、イギリス軍はロバート・クライブが指揮をした3,100人から3,200人の規模で、重砲機も大量に持つフランスに劣っていました。

しかし、このときに降ったモンスーンの大雨によって重砲機は火がつかなくなります。しかも、ベンガル太守側の兵士は雨に対する備えがなく、数的優位にあったベンガル・フランス連合軍は、雨にも訓練されていたイギリス軍に圧倒され、短時間で勝負はついたのです。

大軍のベンガル太守軍でしたが、実際に戦った人数は少なく、イギリス軍の死傷者70人あまりに対してベンガル太守軍の死傷者は500人を越えていました。多くの兵士が参戦した戦いといわれるわりに死傷者数は少なく、ベンガル太守・フランス連合軍で実際に戦った人数はきわめて少なかったといわれています。そのため、天下分け目の戦いのわりに戦闘規模は小さかったといわれているのです。

日本の関ヶ原合戦のような戦いになったプラッシーの戦い

image by PIXTA / 22922395

日本の関ヶ原の戦いのように、毛利、島津などが動かず、裏切りによって勝負のついた天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いと似たような状況になったのです。関ヶ原の戦いの陣地図を見た欧米の戦術家たちは口を揃えて西軍の石田三成の勝利といいます。しかし、実際には西軍では多くの陣が動かなかったため、小早川秀秋が裏切って西軍に兵を向けたため、一日持たずに西軍は徳川家康に敗れたのです。これと似たような裏切りがベンガル太守側に生じたことが勝負を決めたといえます。

プラッシーの戦いの結果

image by iStockphoto

プラッシーの戦いの結果、イギリスはインド東部を手に入れ、フランスはこの地域から撤退せざるを得なくなります。インド東部だけでなく、現在のバングラデシュ、ミャンマー地域もイギリスに奪われてしまいました。そのため、フランスのアジアでの植民地は、ベトナム、カンボジア、ラオスなどのインドシナ半島の東側に限られることになったのです。しかも、この地域には中国の清王朝が力を持っており、それとの戦いもせざるを得ませんでした。

一方、プラッシーの戦いに勝ったイギリスはインドの植民地化に成功し、1765年にはガンジス川下流域やベンガル地方を実質植民地とします。さらに、その他のパンジャーブなどのインド中央部、南部も征服しほぼインド全域を帰属化させ、植民地化することに成功したのです。インドは、大英帝国の一員としての植民地インド帝国になり、それは第二次世界大戦後まで続きました。そして、イギリスはさらに東進してマレー半島(今のマレーシア)まで勢力圏を広げていったのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: