平安時代日本の歴史飛鳥時代

古代日本の国防を担った「防人」とは?歴史系ライターがわかりやすく解説

交通費なし、食費なし、給料なしのまさにブラック企業

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防人として徴用された男子は、おおむね21~60歳くらいだったとされていて、本人が任地へ赴いている期間だったとしても税金は必ず納めねばならない厳しいものでした。単身赴任という生易しいものではありません。ですから多くの家々が労働力不足に陥って疲弊したといいます。

防人の任に当たったのは主に東国諸国(現在の関東地方、静岡県、山梨県など)の人々でした。しかしなぜ東国から遠い九州の地まで赴任させたのでしょうか?実は明確な理由があるのです。

九州に近い場所から徴兵すると、兵士はきっと里心が芽生えて逃亡が絶えないはず。ならばいっそ帰る気すら起こらないほどの遠い場所から赴任させてしまえ。という朝廷の狡猾な考えがそこにありました。簡単にいえば逃亡防止のためですね。

見たことも聞いたこともない遠い地へ赴く防人たちが何より悲しんだのは、愛する家族との別離でした。「万葉集」の中に収録されている防人歌(さきもりのうた)の数々には悲哀と哀愁を感じます。

 

「水鳥の発ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき」

(まるで水鳥のように急いで出立したために、父母に何も言わず出てきてしまった。今となっては悔やまれる。)

「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」

(残してきた妻は、ひどく私を恋しがっているらしい。いつも飲む水の水面にその影が映るようで忘れられない。)

「唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」

(私の衣に取り付いて泣く子供たちを置いてきてしまった。母も亡くなっていないのに。)

 

防人たちはまず自分の国にある国衙(役所)に集まり、役人に率いられて都へ上ります。そして都から船で筑紫(現在の福岡県)へ向かうことになるのですが、食べ物なんて支給などされません。すべて自前で準備しておかねばならないのです。

ただでさえ地元で困窮した生活を送っているのに、その携帯食糧の貧しさたるや想像を絶するものだったことでしょう。

仮に遠江国(現在の静岡県西部)から都までなら約2週間、さらに筑紫まで船で4日掛かるとなると相応の食料を持参せねばなりません。途中の宿駅は役人専用ですから利用できませんし、体力的にもかなり消耗したのではないでしょうか。はるばる遠い関東地方からやって来るとなると、さらに負担は重かったでしょうね。

薄給どころか、食費も交通費も給料ですら支給されませんから、国に対して無償で防衛ボランティアをしていたわけです。当時の国家は、今でいう超絶過ぎるほどのブラック体質ですね。

任地で3年間ガマンの日々…時に延長となることも

防人たちの任期は基本的に3年間。しかし時によって任期延長になることもあったそうです。家族に会いたい一心の防人たちにとって、任期延長の知らせは断腸の思いがあったことでしょう。ここまで読み進んでくると、庶民のことなど一切顧みない大和朝廷の非人間性が浮き彫りになってきますね。

そして大宰府を起点として、各地の古代山城へ防人たちは赴任することとなりました。常時3千人程度が各地の最前線に就いていたそう。大宰府周辺の大野城や水城(みずき)、北は対馬の金田城(かねたじょう)、南は熊本県にあった鞠智城(きくちじょう)など様々な場所に古代山城があったのです。

廃城になる最後まで唐や新羅は攻めてきませんでしたから、実際に戦闘は起こりませんでした。そんな兵士たちの日常はどうだったのでしょう?

平時の訓練や城の補強工事以外に、農作業(主に野菜)がメインの仕事になりました。基本的にどこの防人たちは自給自足です。自分たちが食べる分は自分たちで作らざるを得ません。任地へやって来た際に空き地を与えられ、合わせて農具も支給されていました。また武器のメンテナンスや衣類の修繕なども全て自らで行っていたそうですね。

また当時の庶民たちの家は竪穴式住居でしたが、兵士たちが寝泊まりするための兵舎は掘立柱(ほったてばしら)を組んだ簡素な建物でした。ちなみに筆者が2020年1月に鞠智城を訪れた際の写真を掲載します。

復元された鞠智城兵舎の写真

大事なコメなどを保管する倉庫は火事防止のため瓦葺きになっていましたが、兵舎は板葺きの質素なものでした。

鞠智城の場合は平坦な台地上にあったため、さほど閉塞感はありませんが、山頂などに築かれた古代山城ではかなりの高低差があったことでしょう。体力的にもかなりきつかったことが想像されますね。

やっと任期満了!しかし…帰りはもっと大変

防人たちは3年間の任期を終えると帰宅の途に就きます。これでやっと解放!かと思いきや、さらなる試練が彼らを待ち受けていたのです。

当時の軍役の骨子をまとめた「軍防令」という書物が現存しますが、第32条以降に防人関連のことが記載されています。

 

「衛士防人以上番還、並給身糧」

「軍防令、旧防人条、凡旧防人替訖 即給程糧発遣新人雖有欠少、不充元数、不得輙以旧人留帖」

(衛士や防人の任期が終わり、替え終わったならば、速やかに路程の食料を給付して故郷へ返すこと。)

(新人が少なかったり交代要員が足りなかったとしても、安易に任期を終えた人を留め置いてはならない。)

 

法令ではそのようにはなってはいました。しかし実際にどうだったかというと、多くの防人たちが任期延長を余儀なくされ、非人間的な扱いをされていた以上、それを額面通りに受け取ることはできないでしょう。

任地へ赴く際には、はぐれることがないよう集団で移動しますし船で移動もできました。しかし帰りとなるとそうはいきません。食料こそ持っていたにせよ、そんなものは何週間ぶんもなかったことでしょう。

江戸時代のように街道が整備され、宿駅も等間隔で置かれ、庶民でも泊まれる宿のある時代ではありません。道といえば名ばかりの獣道のようなところを、地図もなくひたすら東へ東へと歩いて行ったのです。しかもたった一人で。

道中には多くのリスクが待ち受けていたことでしょう。危険な野生動物、旅人を襲う野盗の群れ、そして彷徨して食料も食べ尽くし行き倒れとなる危険性。

そうした様々な苦難を乗り越えて、東国へ帰り着いた人々はいったい全体の何%いたのでしょうか?想像するだけで恐ろしくなりますね。

やがて姿を消していった防人たち

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ぱちょぴ(投稿者) – 投稿者による撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

一般民衆たちに大きな負担を強いた防人制度も、ようやく終焉の時を迎えます。それは新しい時代の幕開けともいえるものでした。

朝廷の外交政策が成功するも、継続された防人制度

すでに述べた通り、九州を中心とした西日本で唐・新羅の侵攻を食い止めようとするのと同時に、和解と友好を求めようとする外交努力が続けられていました。

669年には白村江の戦いで敗れて以降、初めての遣唐使が派遣され、その後も唐の優れた工芸品や美術品などが日本へ流入するようになりました。次第に日本と唐の友好関係は醸成されていき、新羅に対しても遣新羅使が派遣されるなど東アジアでの交流が深まるようになっていったのです。

8世紀中頃になると、庶民への負担が重かった東国からの徴用は廃止され、代わって九州地方からの徴用のみとなりました。さらに桓武天皇が「健児(こんでい)の制」を定めてプロの兵士を常勤させるようになると、ますます防人の必要性が薄れていったのです。

しかし、そんな状況にあっても防人制度が廃止されることはありませんでした。新羅の海賊たちが日本海沿岸を荒らしていたという事実もありますが、土地や戸籍制度に依存した律令制にしがみつきたかった朝廷自身が問題を先送りにしていたといえるでしょう。

武士の登場とともに姿を消した防人

朝廷が依存していた律令制ですが、いよいよ崩壊の時を迎えることになります。平安時代に入ると、本来なら国有地だったはずの全国の土地が、有力貴族や寺社によってどんどん私有地化されて荘園になっていきました。

律令制とは土地と人民を国家が一元管理する制度ですので、政治の基礎である土地や戸籍が有耶無耶になってしまえば、もはや防人制度も無きも同然になってしまいます。

さらに武士の登場が事態に拍車を掛けました。当時の武士は貴族たちの用心棒的存在でしたし、荘園の管理や、各地の軍事・警察権力の担い手でもあったため、国防という任務にはまさにうってつけ。

結果、防人は10世紀初頭の平安時代中期には姿を消し、まさに武士の台頭が新しい時代を作ることになったのです。

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明石則実