中国の歴史

キリスト教徒の大反乱「太平天国の乱」をわかりやすく解説

太平天国の社会制度

南京を陥落させた後、太平天国は即座に制度の整備に着手していきます。

そのもっともな例が太平天国における満州人の慣習の排除。このころの中国は満州人(女真族)が建国した清が支配しており、満州人の慣習を大多数の漢民族に強制するような状態でした。

これを受けて太平天国は滅満興漢をスローガンとして満州人を打倒する目標を掲げて満州人の慣習であった辮髪を排除。さらに女性に強制されている風習であった纏足も禁止され、男女平等の理念もこの頃から見られていくようになります。

さらに太平天国では天朝田畝制度と呼ばれる土地制度を創始し、田畑があればみんなで耕し、収穫物は皆で分け合いながら豊かな衣食を手に入れるという今の社会主義的な考えでした。

田畑の質に応じて男女問わず田を分配し、生産物は個々人の消費分以外は国庫に保管しながら生活分の食料を国民に分配し、いわゆる社会主義と同じようなことを行っていましたが、社会主義的な考えは総じて失敗に終わったように太平天国における土地制度も徐々に破綻の道を歩んでいくようになりました。

天京事件と太平天国の凋落

こうして洪秀全の理念のもとに太平天国が成立しましたが、この太平天国は実に現実離れした政策ばかりであり、さらには中途半端な構造のせいで内部分裂が横行していくようになります。その一つの例が天京事件でした。

南京を攻略する前に2人の王を失っていた大平天国ではやがて洪秀全ではなく、東王の楊秀清が実権を握っていくことになります。

この立場逆転によって楊秀清が図に乗り横柄な態度をとったことによって初期のころは目くじらを立てなかった洪秀全も激怒。楊秀清と楊秀清派の4万人を殺戮し、さらには天京事件によって幹部同士でのゴタゴタが起きます。

さらに軍隊の近代化をひそかに推進していた清はこの機を逃さず天京を包囲。太平天国はこの難局を切り抜けたもののもはや風前の灯となっていました。

天京陥落

太平天国はイギリス人の宣教師の助力もあってか一時期は立て直しに成功していましたが、それをなんとかするだけの力はもう残されてはいませんでした。

清は洋務運動と呼ばれる一大近代化運動を推し進めていきやがて軍を強化。外国人の傭兵部隊を用いて太平天国を圧倒していくようになります。さらに太平天国が徐々にほころびを見せ始めていくようになるとイギリスやフランスが徐々に見限っていくようになり太平天国は孤立。1863年以降には蘇州・杭州と次々失い天京は包囲され諸王はこぞって洪秀全を見捨てていくようになったのです。しかしこの状態でも洪秀全に天京を破棄することをせず、残っている部下に対して孤立した天京をなんとか防衛するように命令。

しかし、包囲された天京はすでに食糧がほとんどなく、洪秀全すら雑草を「甜露」と呼んで食べていた始末。さらに食糧がなくなったことによってこれまで厳しい軍律によって保たれていた兵士の民度も急激に落ち込むようになり防衛に当たるべき兵士が暴徒化するように。もはや太平天国の理念は忘れ去られていきついに崩壊の一歩手前まできたのでした。

そしてついに1864年6月1日に洪秀全は栄養失調により病死。その40日後には天京も陥落して太平天国の乱は終焉を迎えることになるのです。

太平天国の乱のその後

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天京が陥落したあと、清軍は太平天国に加担した20万人の民衆を虐殺。洪秀全の墓も徹底的に破壊され洪秀全の息子も程なくして捕らえられ処刑されることになります。一応、天京を脱出した生き残りの諸王たちは残党と合流して各地で散発的な抵抗活動をおこなうのですが、清軍によって鎮圧されていき、1870年代にはほぼすべてが鎮圧されました。

しかし、太平天国が鎮圧されてもその理念は脈々と受け継がれていきのちに孫文によって太平天国の悲願の一つであった滅満興漢が成し遂げられることになるのですが、それはまた別の話。

太平天国の乱は中国の反乱の礎となった

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太平天国の乱は無茶苦茶となって最終的には鎮圧されることになりますが、この太平天国の乱がのちの漢民族の反乱につながっていき、そして辛亥革命へとつながっていくことになるのです。

太平天国の乱は中国の近代化に貢献したのですね。

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