寄進地系荘園による財政獲得
白河法皇の最大の財源が荘園の寄進によるものでした。
荘園というのは要するに貴族や豪族が土地を開墾したことによって得た土地のことなんですが、この頃になると自分の権威を使って荘園を手に入れることが行われ始めていくようになります。白河法皇はまず、受領という現地の地方役員の任命権を獲得し、自分のいうことを聞いてくれそうな人を任命。そのおかげで受領になりたい人たちが上皇に対して荘園の管理を任せていくようになります。その結果、白河法皇は強大な財源を持つことに成功し、この権力を使って朝廷を凌ぐ権力を持つようになったのでした。
院近臣と北面の武士
白河法皇はいつの間にか天皇の父であるにもかかわらず政治の権力を握っている人である『治天の君』と呼ばれるようになり、その権威に預かろうとたくさんの人が朝廷そっちのけで上皇に仕えようと必死になっていきます。
上皇に気に入られるために側近たちは荘園や金銀などをじゃんじゃん賄賂として贈り、白河天皇はその見返りに院近臣(いんのきんしん)として家臣に任命し、普通の官僚ではなれない地位を保証したのです。
こうして強力な関係を築き上げた上皇はその権威を使って朝廷を凌ぐ権力を持ち、院庁下文や院宣などで朝廷とは違う命令系統を確立。
さらに、興福寺や延暦寺などの強訴が盛んになっていることを受けて北面の武士を創設するなど護衛にも抜かりなしでした。
院政の衰退
朝廷を凌ぐ権力を築き上げた院政でしたが、その栄光は短いものでした。
白河上皇は、崇徳天皇を皇位につけた直後に崩御。
その後、白河上皇の後継者として鳥羽上皇が治天の君として院政を敷くこととなったのですが、この鳥羽上皇は崇徳天皇と仲が非常に悪くすぐさま近衛天皇へ譲位を強制させます。
そして、1156年に鳥羽上皇が崩御すると目の上のたんこぶがいなくなった崇徳上皇は自分が院政を敷くために皇位についていた後白河天皇と対立し内乱が勃発。保元の乱と呼ばれる内乱が起こった末に後白河天皇が勝利し、崇徳上皇を押しのけて後白河天皇は1158年に二条天皇へ譲位し院政を開始しました。
しかし、この頃になると院政ではなく、武士の力が強くなり始めていき、平清盛が太政大臣にまでなると後白河法皇と平清盛とが対立し始めるようになり、後白河上皇は平清盛の排除に動き出します。
しかし、鹿ケ谷の陰謀が露見したことによって後白河上皇は鳥羽殿に幽閉。院政は停止となります。
平清盛がこの世を去ると後白河上皇の院政が再び始まるのですが、この頃になると武士の力を止めるだけの権力もなく、後白河上皇の跡を継いだ後鳥羽上皇は院政を復活させるために鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗。後鳥羽上皇は隠岐に流罪となった上にさらには院政を行えるだけの力もなくなってしまったのです。
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その後の院政
承久の乱の後、院政自体は行われていくのですが、鎌倉幕府がある以上どうすることもできず、次第に院政を行う意味がなくなってしまいました。そして明治時代に入ると皇室典範によって上皇の制度は禁止とされてしまいます。しかし、2019年に現在の上皇陛下が上皇となり光格天皇以降約250年ぶりに上皇が誕生。もちろん院政なんてことはできませんが、今でも上皇は日本の生活に強く根付いているのです。
いろいろある院政と同じ例
院政と呼ばれる時代は一般的には白河天皇から後鳥羽天皇までと言われていますが、日本には院政と同じように父や祖父などが位を譲った後でもある程度の権力を保持したり、政治に介入することがありました。
次は院政の時代以降の同じ例について見ていきましょう。
戦国大名における例
戦国大名のなかにも嫡男に家督を譲りながら、後見役として外交や戦略の実権を握りつづけた人たちがいます。その一つの例が後北条氏おける例でした。
後北条氏がこのようになったのは第4代当主である北条氏政の頃です。
氏政の後継者として北条氏直が当主となりましたが、氏政は小田原征伐の頃まで政治に関与していました。
なぜ氏政がこの方式を採用したのかというとこの当時後北条氏の勢力が急激に拡大していたから。氏政の頃には南関東一体をほとんど制圧し、さらには北関東までその権力が及んでいるところまできていたのです。
しかし、領土が大きくなると当主を変えようにも一大事。もしもすぐに全ての権力を与えると快く思わない家臣が謀反を起こしたり、反乱が頻発する可能性だったあったのでした。
さらには北条家の場合は親戚との結束が非常に強く当主である氏政の他にも氏照・氏邦・氏規といった弟たちが家臣としてそれぞれ戦略や外交で大きな役割を果たしていたのです。
こうなると謀反が起きづらく、非常に安定した政治が行われますが、もし氏政が氏直にくらいを譲ったら氏直からしてみたら叔父にあたる人々が家臣として仕えるわけ。いくら当主になったからといって、叔父に対して命令をするのはちょっと気が引けますよね。
だからこそ氏直が立派に育つまでしばらく待って最悪氏政がなくなるまで後見人として政治に関与するべきだと考えていたのでした。
わかりやすく言うと本社である北条株式会社の社長を氏直に譲って氏政は会長として北条グループ全体を束ねることにしたと考えればわかりやすいでしょう。
ちなみに、戦国時代におけるこのような例は他にもあり、例えば織田信長の場合でも1576年に嫡男である織田信忠に譲りながらも、政治に関与しています。
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