安土桃山時代日本の歴史

「太閤検地」とは?天下人・豊臣秀吉が思い描いた日本の姿とは

【太閤検地の主な基本ルール】
●土地の収穫量を測る単位を「石」に統一(石高制)
●水田を4段階(上・中・下・下々)にランク分け
●米を測る升を京升(京都を中心に広く使われていた枡)に統一(
●細見竹や尺杖など測定用の道具も統一し、測定方法を確立、
●測定用の単位を統一
●単位は以下の通り
 ・6尺3寸=1間(およそ191cm)
 ・1間四方=1歩
 ・30歩=1畝
 ・10畝=1反
 ・10反=1町

太閤検地はやがて江戸幕府の礎に

ここまでの内容を整理してみましょう。

荘園時代や戦国時代には考えられなかった「日本全国一斉統一検地=太閤検地」。

豊臣秀吉が天下統一を果たしたことで、全国の農地をすべて同じ基準で調査することが可能となり、「太閤検地」が実現しました。

まず、土地の面積、田畑の状態を徹底調査し、どの田んぼからどれくらいのお米がとれるか、正確に把握することができるようになります。

つまり、これまで年貢をごまかしていた(実際にはもっとたくさんお米がとれるのに少なく見積もって納税額が少なくて済むようにしていた)ケチでずるがしこい領主たちも「年貢の納め時」となったわけです。

さらに収穫時のお米の単位も統一。「石高」という制度が確立され、石高に応じて年貢の量が決まり、税の徴収量が分かりやすくなりました。

これにより、複雑だった農地の所有権利もシンプルに。農民と城主の間で年貢をかすめ取っていた輩はいなくなります。

どの農地をどの農民が耕すかスッキリ明快。1588年に行われた「刀狩り」の影響もあり、農民たちは農業に専念。一層、田畑に縛り付けられるようになりました。

秀吉はこれらの調査を、地道に辛抱強くコツコツと続けさせ、全国の農地の情報を細かく記録。書類は膨大な量に及んだと言われています。

しかし周知のように、豊臣の時代はこの後、そう長くは続きませんでした。

秀吉亡き後、関ヶ原の戦い~大坂の陣を経て、全国を平定した徳川家康。政治の拠点を江戸に移し、徳川幕府を開きます。

徳川幕府は太閤検地によって得られた効果や業績を継承。その後の農地管理の基礎となっていくのです。

秀吉でなければ成し遂げられなかった?不可能を可能にした「太閤検地」

image by PIXTA / 44372910

秀吉というと派手好きで目立ちたがりというイメージがあったので、検地に積極的だったとは意外な感じがしました。考えてみれば秀吉は農民出身。おそらく、農業がイヤで侍になろうとしたのだと思いますが、脳裏には、農民たちの厳しい境遇が焼き付いていたのかもしれません。秀吉だからこそ、歴史上のそれまでの体制や常識にとらわれず、大胆な政策を実施しうることができたのだろうと、改めてそう感じました。

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