4.再び花開いたニュートンの晩年とは?
ニュートンは、20代で大発見をし、それ以後目覚ましい発見はないようです。政府高官や政治家を経て、アン王女からナイトの爵位を与えられました。数学の天才ニュートンから、アイザック・ニュートン卿へとなったのです。ニュートンは晩年に、貴族的な威厳を匂わせる自画像をたくさん残しています。貴族になれた栄光に酔いしれていたのかも。
4-1.贋金対策に取り組む
ロンドンにいたニュートンは、1696年にカレッジの後輩だった大蔵大臣モンタギューの誘いで、造幣局監事に就任しました。当時の監事はお飾りだったのですが、彼は周囲が驚くほど熱心に働いています。当時のイギリスのお金はとても粗末なもので、偽造も容易でした。
組織的な贋金造りも横行しており、国の経済に支障が出るほどだったとか。ニュートンが組織の頭「ウィリアム・チャロナー」を逮捕し死刑台送りにしたことで、国内の贋金造りは激減しました。1699年この功績により、造幣局長官に選ばれ生涯務めています。後に、1ポンド紙幣にニュートンの肖像画が使われました。
4-2.多彩な才能を開花させる晩年
数学の天才ニュートンは、微分積分法を発見し、力学の構築、宇宙の謎を解き、光をスペクトルに分けるなど、科学者をはじめさまざまなことで才能を開花させます。また、錬金術に最も力を入れており、水銀や鉛など毒性の強いものも使っていました。そのためか、50歳の頃から体調を崩してしまい、行動や言動がおかしくなってしまったとか。
でも、奇跡の復活を遂げたニュートンは、ケンブリッジからロンドンに移転し、王立造幣局に勤務。その後、王立協会の会長職を引き受けています。ライバルだったフックは年上で、ニュートンより早くに亡くなりました。フックがなれなかった王立協会会長の地位に、ニュートンが就き亡くなるまで活躍しています。フック対ニュートンは、ニュートンの勝ち!
1727年3月31日(新暦)で、睡眠中に84歳で永眠しました。当時としてはかなりの長寿です。世界遺産でも有名な、ウェストミンスター寺院に埋葬されています。
4-3「近代科学の父」と「最後の魔術師」どっちがニュートン?
「近代科学の父」と呼ばれる功績は、この記事でご紹介した通りです。200年後にケンブリッジの経済学者ケインズは、ニュートンの事を「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だ」と呼びました。
彼が残した手稿が競売にかけられたとき、半分をケインズが購入しています。そのほとんどが錬金術についてだったとか。世紀の大天才と呼ばれただけあり、生涯成した功績も多彩でした。仮面を外した彼の本当の顔は、「近代科学の父」と「最後の魔術師」のどっちだったのでしょう。
史上最高の天才科学者ニュートンも人間の気持ちはわからなかった
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万有引力の法則や惑星運動のメカニズム、七色の虹の原理による光学などなど、小難しい問題を解決しましたが、気難しい性格の彼は、相手がどう考えて行動するのが最善かを悟ることは難しかったようです。ニュートンは「天体の運動はいくらでも計算できるが、人の気持ちはとても計算できない。」という名言を残しています。