イギリスヨーロッパの歴史

5分でわかる天才「ニュートン」の生涯ー名言や性格は?幼少期は?わかりやすく解説

3-2.「万有引力」は誰もが発見できた

万有引力は、ケプラーの「天体の運動」とガリレオの「地上の物体の運動」の存在があったから発見できたとか。ニュートンの名言に「私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからです。」があります。この二人の研究のお膳立てがなければ、ニュートンも発見できたかは不明です。ということは、先人の二人がもう少し、この研究に力を注げば又は、彼らが共に研究をしていたら、もっと早く万有引力は発見されたのでは?ガリレオが亡くなってからニュートンが万有引力を発見するまでの間に数学は相当な速度で進歩しており、この頃の数学者であれば誰もが発見できる位置にいたことは確かで、彼が幸運だったことは間違いありません。ニュートンは、「リンゴの実が木から落ちたとき、なぜ月は落ちてこないのだろう」と思ったことから、地球とリンゴが互いに引力を及ぼし合っていることを発見するに至ったといわれています。

3-3.万有引力は本当にニュートンが作った?

万有引力の発見者は、ニュートンではないとの説があります。故郷に帰った短い期間で、完成できるレベルではなかったからです。この時期に研究をはじめたことは間違いなく、遅くとも1684年8月には完成していたとか。また、「どんな行動にも、必ずそれと等しい反対の反応があるものである。」という名言もあり、やっぱり万有引力の発見者は間違いなくニュートンのようです。

イギリスで、リンゴがメジャーになったのは、19世紀中ごろでした。ニュートンの時代に、一般家庭にリンゴの木があるのは極めて珍しいと思われます。私たちが想像する果実のリンゴではなく、料理に使うような粗雑なリンゴだったようですが、彼の実家にはリンゴの木があったそうです。残念ながらその木は、1814年に老衰のため伐採されています。

3-4.ハレーとの出会い

オックスフォード大学の天文学者エドモンド・ハレーの「惑星の軌道の研究」が上手く行っておらず、ケンブリッジ大学で数学者として頭角を現していたニュートンのところへ訪れました。ニュートンは10年も前に、その研究をはじめており、既に論文に纏めていたのです。

人間不信の塊だったニュートンは、ハレーが信頼できる人物と確認するまでは論文をみせませんでした。3ヶ月後にハレーへ論文が送られて来ました。この論文は、『回転している物体の運動について』という9ページの短いものでしたが、数学的な解説も完璧で、完成度が高く目を見張るものがありました

ニュートンの法則や計算方法をもとに、1682年に観測された彗星が、再び72年後に戻ってくると予測し現実となります。この星は「ハレー彗星」と呼ばれるようになりました。この一件が、後に万有引力を世に広めるきっかけとなるのです。

3-5.ニュートンとフックはライバル?

ロバート・フックといえばバネの伸びに関する「フックの法則」で有名な凄い人物。でも、二人はよく対立しており、一般的にもライバル関係で紹介されています。ケプラーの考え方を拡張し「万有引力は全方位に影響を与え、その強さは距離の2乗に反比例する」とした、「万有引力の法則」の発見者は、自分だとフックが主張したのです。でも、一般的にも数学は発達途中で、数学に弱いフックが「逆2乗の法則」を自力突破はまず不可能だと思われます。

当時の成功する科学者は、王立協会のメンバーであることが必須条件でした。顕微鏡で拡大した生物のスケッチ集で、フックの『顕微鏡図譜』が評判になっており、「光学の第一人者は俺だ!」と鼻高々なところに、天才ニュートンが現れたことに脅威に感じたとか。1672年にメンバーになったニュートンの光学実験の論文は不認定でしたが、光学を巡りフックはニュートンをバッシングするようになったようです。

3-6.万有引力発見の経緯を簡単に

微分積分法を使い、月が円軌道を27日で一周したときの月に与える地球の引力を計算し、地球の中心から地上の物体に与える引力の計算をします。地球の中心から月までの距離は、地球の半径の60倍と導きました。地球上の引力は月に与える引力の3600倍(60×60)で、ガリレオの「重力の加速度」と一致したのです。

「ケプラーの法則(天体の力学を支配する法則)」は、万有引力で説明がつくことも示しました。地球と月の間に引力があると証明し、太陽と惑星の間にも未知の力があると考えたのです。惑星が太陽に近づくと引力は増し、遠ざかると減少します。惑星の公転周期の2乗、太陽からの平均距離の3乗が一定となることで、天対運動の現象にも万有引力と同じ引力があると証明しました。ケプラーの「天対運動を支配する法則」とガリレオの「地上の物体の運動を支配する法則」を、統合し発展させ万有引力の発見として完結させたのです。

3-7.ひとつの論文から万有引力は日の目を見た

ニュートンの才能を見抜いたハレーは、これまでの研究を纏めるように進言しました。ニュートンは、彼の熱意に負け1年をかけて纏め、『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』が出版されました。ニュートンが力学の体系の構築を著した名著で、第3部には「万有引力の法則に基づく天体の諸現象」が書かれており、世界に発信することができたのです。この本は、「近代科学の基礎」になったといわれています。実は、この本の出版までには、ハレーの功績は計り知れません。

説得はもちろんですが、出版費用まで彼が持ったようです。ハレーなくして「万有引力の法則」が世に出ることはなかったでしょう。天文学者でハレーといえば…。そうです、1531年と1607年と1682年に、地球上で見られた大彗星「ハレー彗星」の発見です。この二人が協力したことで、天文学の進歩に繋がったことはいうまでもありませんね。

ちょっと雑学

ニュートンの功績を、もうひとつお話ししましょう。雨の後などにかかる虹の色は、7色とすぐに思うでしょう。でも、ニュートンの頃は5~6色が一般的でした。

ニュートンは光についての研究中に、ガラスのプリズムから出た光が、壁に当たり7色にわれたからです。何度実験しても、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と同じ順番でした。彼は、「スペクトル」と名づけています。「ドレミファソラシド」の音階に関連付け7色と決めたという説も。

日本では虹といえば7色。世界では7色としているところはあまりないようですが…。

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