平安時代日本の歴史

摂関政治の全盛時代を築き上げた「藤原道長」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

法成寺の造営

1019年、道長は病となり出家しました。出家後、道長は法成寺の建立に全力を傾けます。法成寺とは、道長が自分の邸宅があった土御門殿に隣接する土地に建てた阿弥陀堂のこと。諸国の国司である受領たちが道長に奉仕することで法成寺は立派な寺院となります。

1022年、法成寺は完成し、盛大な落慶供養が催されました。一条天皇の后となった彰子、三条天皇の后となった妍子、後一条天皇の后となった威子らが落慶供養に参加。道長の栄華を世に知らしめます

晩年の道長は病との戦いだったようですね。1028年1月、道長の体調は急速に悪化。背中に腫瘍ができて苦しんだと伝えられます。

自分の死を悟った道長は、法成寺の阿弥陀如来の手と自らの手を糸で結びました。その近くで僧侶たちは読経を行い、道長自身も念仏を唱え続け極楽往生を願います。1028年1月3日、道長は息を引き取りました。享年62です。

三条天皇の孫である後三条天皇やその子の白河上皇が摂関政治に終止符を打った

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道長在世中から藤原氏の氏長者を引き継いだ頼通は、父と同じく娘たちを天皇の后に送り込みます。しかし、頼通の娘たちは男子を生むことができませんでした。道長に退位させられた三条天皇の孫である後三条天皇は、摂関家を外戚としない天皇です。そのため、藤原氏の摂関を置かず、自ら政治を行いました。後三条天皇が作り上げた基盤を使い、白河天皇が退位後に院政を展開。藤原氏の摂関政治に終止符を打ちます。

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