平安時代日本の歴史

摂関政治の全盛時代を築き上げた「藤原道長」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

一条天皇と道長の関係

一条天皇は中宮である定子をはなはだ愛していました。定子の女御としてそば近く仕えたのが「枕草子」の著者である清少納言です。995年に道隆が死去し、伊周が宮中で力を失うと定子は後ろ盾を失いました。

一方、道長は自らの娘を一条天皇の后にしようとします。しかし、すでに正妻ともいえる中宮の地位には定子がついていました。そのため、道長は定子を皇后とし、自らの娘である彰子を中宮とします。

さらに、一条天皇の気を引くため、紫式部を彰子の女御とし、「源氏物語」の執筆を支援。「源氏物語」の続きを見たいと思った一条天皇は、彰子の部屋に足を運ぶようになりました。

それとは別に、一条天皇は自分も醍醐天皇や村上天皇のように親政を行いたいという希望を持つようになります。道長は一条天皇の希望に沿い、協調して政治をおこなったとされました。

三条天皇との対立

1011年、一条天皇は亡くなる直前に冷泉天皇の子である居貞親王に譲位。居貞親王は即位して三条天皇となりました。

1012年、道長は娘の妍子を三条天皇の中宮とします。1013年に妍子が子を産むと、なるべく早く自分の孫を天皇にしたいと考える道長と三条天皇の関係が微妙なものとなります

1014年、三条天皇は目の病気を患い視力を失いました。道長は三条天皇が失明したことを理由に、たびたび譲位を迫ります

加えて、天皇の住まいである内裏が炎上するなど不祥事も起きたため、道長は人心一新を主張して三条天皇に譲位を強く迫りました。1016年、三条天皇は止む無く一条天皇と彰子の子で道長の孫にあたる後一条天皇に譲位しました。

 

道長の栄華と晩年

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道長は一条天皇・三条天皇・後一条天皇の内覧や摂政として30年間にわたり朝廷の実権を握り続けました。道長の政治権力は子の頼通に引き継がれます。1018年、道長は三女の威子を後一条天皇に嫁がせました。同じ年に開かれた宴席で披露されたのが有名な「望月の歌」ですね。道長は1028年に62歳で病没します。

道長の引退と頼通による摂関政治の継承

三条天皇を退位に追い込んだのち、道長は後一条天皇の摂政となりました。1017年12月、道長は従一位太政大臣に任じられ、位人臣を極めます。天皇の成人の儀式である元服の儀式で、天皇に冠を授ける役は最高官職である太政大臣からと決められていたからでした。

後一条天皇の成人式を終えた道長は、すぐに太政大臣を辞任します。1017年3月に、すでに藤原氏のトップである氏長者や摂政の地位を子の頼通に引き継がせていた道長は、太政大臣辞任により正式に引退しました。

跡を継いだ頼通はまだ年が若く、経験が不足していたため、父である道長の助言をたびたび仰いだようですね。道長は朝廷に対し、一定の影響力は持っていましたが、頼通が道長の言うことにすべてしたがったというわけではなさそうです。こうして、摂関政治は徐々に頼通に引き継がれました

絶頂期に詠まれた「望月の歌」

1018年、後一条天皇が11歳になると道長は自分の三女である威子を宮中に送り込み、同年10月には中宮としました。当時の有力者の一人である藤原実資は日記「小右記」の中で「一家立三后、未曽有なり」と記し、道長の家から3人もの中宮が出たことを驚きとともに記しています。

その「小右記」に、あの「望月の歌」が記されていました。1018年10月16日、道長は自邸に公卿たちを集めて祝宴を開きます。威子が後一条天皇の中宮になったことを祝う宴でした。その席で、道長は即興の歌として「望月の歌」を披露します。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」。この世は、まるで自分の世の中のようだ、満月のように全く欠けていないのだから、といった意味合いの歌です。

通常、和歌を披露した場合、それに対する返歌が詠まれますが、公卿たちは返歌のかわりに「望月の歌」を唱和しました。道長の権勢をおもんばかったからこその反応でしょう。

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