日本の歴史飛鳥時代

意外と知らない「中臣鎌足(藤原鎌足)」の生涯~大化の改新の後は何をしていた?

天皇中心の律令国家確立へ:大化の改新の全容

大化の改新=蘇我入鹿・蝦夷の暗殺と思われがちですが、これは大化の改新の第一歩にすぎません。

本番はこれから。蘇我氏の力を削ぎ、様々な改革を行って天皇中心の世の中を取り戻すこと。大化の改新とは、乙巳の変から数年間にわたって行われた改革の総称なのです。

乙巳の変の後、中大兄皇子の母・皇極天皇は皇子に天皇の座を譲ろうとします。

しかし中大兄皇子はこれを辞退。結局、皇極天皇の弟にあたる軽皇子(かるのみこ:孝徳天皇)が第36代天皇になることとなりました。

中大兄皇子がなぜ天皇にならなかったのか、理由については諸説語られており、不明。中大兄皇子が天智天皇となったのは、これより20年ほど後のことです。

しかし、中大兄皇子がその後も朝廷の中心にいたことには変わりありません。皇子は朝廷内の人事を一新。中臣鎌足は内臣に任命され、皇子の側近として改革を推し進めていきます。

天皇から送られた「藤原」の姓:晩年の中臣鎌足

大化の改新と並んで古代日本の歴史的大事件として語られることの多い出来事が、663年に起こります。白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)です。

当時、朝鮮半島にはいくつかの国があり、互いに争いあっていました。日本は親交のあった百済(くだら)に援軍を出し、新羅と唐の連合軍と朝鮮半島西側の白村江というところで開戦。満を持して大軍を送り込みましたが、地の利が悪かったのか、大敗してしまうのです。

大軍を失い惨敗しただけでなく、大国・唐を敵に回してしまった日本。この一連の様々な決断を下していたのが中大兄皇子でした。

中臣鎌足はずっと中大兄皇子の側近だったはずなので、白村江の戦いの際も皇子を支えて政務にあたっていたはずですが、この頃、中臣鎌足の名前はほとんど見られません。

白村江の戦いの後、唐が攻めてくる可能性を考えて、国防と内政を強化。結果的に唐が攻めてくることはありませんでしたが、中大兄皇子は肝を冷やしたことでしょう。

いろいろあって668年、中大兄皇子は天智天皇として即位。その翌年、中臣鎌足は怪我がもとで床に臥せるようになってしまいます。このとき、天智天皇は病床の中臣鎌足のもとを訪れ、見舞ったのだそうです。

天智天皇は中臣鎌足の長年の功績を称え、最高官位となる大織冠(たいしきかん)を授け、内大臣に任命。このとき「藤原」の姓が贈られたと伝わっています。のちに日本最大氏族のひとつに発展する藤原氏の始まりです。

一般的には、生前の鎌足の様子や行動を記すときは「中臣鎌足」。藤原氏の祖として語るときは「藤原鎌足」と区別することが多いようです。

深い絆で結ばれた天智天皇と中臣鎌足。藤原姓を受けた後まもなくして、中臣鎌足は56歳の生涯を閉じたのだそうです。

国の安泰を信じて中大兄皇子に仕えた中臣鎌足の生涯

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1400年以上も前のことなので、文献も史料も少ない飛鳥時代。中臣鎌足がどんな人柄であったか、その多くは想像するよりほかにありませんが、実直で忠誠心にあふれた人物だったのではないでしょうか。中大兄皇子を支え続け、国のために尽くした中臣鎌足。皇子との絆の深さを思うと、胸打たれるものがあります。

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