平安時代日本の歴史鎌倉時代

日本が誇る最古のマンガ?「鳥獣人物戯画」にまつわる謎に迫ってみよう

覚猷(かくゆう)

平安時代後期の天台宗の僧侶。高僧であるにも関わらず絵画に精通し、ユニークでユーモアあふれる筆致が特徴です。

別当や大僧正を歴任するなど、天皇からも信任されたほどの実力者でしたが、いっぽう政治や仏教界の在り方を批判し、決してこびへつらうことを良しとしない人柄で知られています。

それは絵の表現にも表れていて、一見ユニークで明るい絵のようでありながら、権力へのあてつけや政治批判が込められた風刺画のような作風になっていることが特徴ですね。

定智(じょうち)

平安時代後期の画僧。覚猷の元で密教図像の収集に協力し、高野山や醍醐寺に居住して仏画制作に当たりました。

1132年落成の高野山大伝法院の壁画制作をはじめとして、「仁王経五方諸尊図」「善女竜王図」などの代表作があります。

装飾画が主体だった同時期の仏画の中にあって、鋭い墨線を駆使して仕上げる彼の絵は、非常に特徴的なものとして評価されていますね。鳥獣人物戯画もまた墨線で描かれていますから、定智も作者の一人だったのでは?という説もあります。

義清(ぎしょう)

天台宗比叡山無動寺の画僧で、嗚呼絵(おこえ)の名手だとされています。簡略的な墨線でモデルの特徴をよくとらえた戯画を描いていたそうです。

嗚呼絵とは、平安時代から鎌倉時代にかけて流行した風刺や滑稽を目指した戯画だとされていますね。

 

今は昔、比叡の山の無動寺に、義清阿闍梨と云ひし僧ありき。

此の阿闍梨の書きたるは、筆はかなく立てたるやうなれども、ただ一筆に書きたるに、心地のえもいはず見ゆるは、をかしき事限りなし。

もう昔のことだが、比叡山の無動寺に義清という僧がいた。

この僧が描いた絵は、筆先は頼りないように思えるし、ただ一筆で描いたものなのに、言いようもないほど素晴らしいものだ。

 

今昔物語の中でも高く評価されていて、やはり鳥獣人物戯画の作者の一人ではないか?という説がありますね。

名もなき僧が描いたもの?

作者の可能性がある人物たちを何人かご紹介しましたが、謎が解けたわけではありません。

たしかに彼らの作風は、鳥獣人物戯画の筆致と一致する部分もあるのですが、本当に彼らが描いたものか?となると疑念が沸いてきます。

なぜなら覚猷はじめ定智らは、当代の著名な仏画僧です。そんな彼らが決して上質ではない反故紙(書き損じをもう一度漉いた紙)に絵を描いて残し伝えるものでしょうか?質の低い紙を使うということは、まだ実績を積んでいない画僧がデッサンのつもりで描いたものという可能性も否定できないと思います。

また、覚猷らはいずれも平安時代後期に生きた人物たちです。ですから少なくとも丙・丁巻に関しては鎌倉時代の作だと考えられるため、まぎれもなく彼らが描いたものではないでしょう。

結論として導き出されることは、名もない僧が世間を風刺して描いたもの。と考えても不思議ではありませんね。

鳥獣人物戯画はなぜ高山寺に集められた?

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谷文晁ほか – Scanned from reprint of 1908, パブリック・ドメイン, リンクによる

そして第二の謎です。鳥獣人物戯画は京都の高山寺に伝えられてきた寺宝なのですが、なぜ高山寺だけに集められたのでしょうか?その理由を探ってみたいと思います。

高山寺は明恵上人草創の寺

世界文化遺産でもある高山寺(こうさんじ)。この寺は明恵(みょうえ)上人抜きには語れないでしょう。

明恵は1173年に生まれ、8歳で父母を失うも高尾山神護寺で出家しました。その後、東大寺で華厳宗を学び、密教の伝授を受けるなどした明恵は、1206年に後鳥羽天皇から京都栂尾の地を賜って高山寺を開いたのです。

華厳宗中興の祖と呼ばれており、自然との調和を重視し、自らが見た夢を記録した「夢記(ゆめのき)」を残すなど、非常に人間味あふれる人物だったそう。

そんな明恵を慕う者も多く、たくさんの若き僧たちも彼の元に集ったことでしょう。また公家や武家など上流階級との親交も厚く、鎌倉時代の多くの文化財が高山寺に伝わっているのもそのためです。

また明恵は動物を慈しんだことでも知られ、「夢記」の中にもしばしば動物が登場します。父母を亡くした幼少の頃、子犬をまたいでしまった時に、「もしかしたら亡き父母の生まれ変わりかも知れない」と我に返り、立ち返って拝んだという逸話もありますね。

明恵が座右に置いて愛玩した子犬の木像が現存しており、愛らしいその姿は生きているかのようです。

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明石則実