人物のみで描かれた【丁巻】
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丁巻はこれまでと一転して人間のみが描かれています。人々が勝負事に挑む姿が多く描かれていて、侏儒(体の小さい人)の曲芸に続き、修験者と法師が験を競う場面が表され、法会や流鏑馬(やぶさめ)、木遣り(きやり)といったシーンがユーモアたっぷりに描かれているのが特徴です。
木遣りとは重い物を運ぶときに出す掛け声や歌のことですから、その場のにぎやかな様子が伝わってくるようですね。ちなみに流鏑馬は源頼朝が復活させた武芸ですし、木遣り唄も13世紀初めに栄西上人が興したものですから、この丁巻の成立が鎌倉時代だということがわかります。
絵のタッチは全体的に軽妙で奔放。思うがままに筆を走らせたことが見て取れますね。今でいうラフ画のような感じでしょうか。
「鳥獣人物戯画」はいったい誰が描いたもの?
それでは鳥獣人物戯画の謎に迫っていきましょう。まず第一の謎は、いったい誰がこれを描いたのか?ということ。鳥獣人物戯画の成立は平安時代後期~鎌倉時代初めだとされていて、かなり年代に幅があります。それぞれの巻によって絵のタッチも異なるため、おそらく複数の人間によって描かれたものでしょう。確証となる資料がないため何とも言えないところですが、作者かも知れない何人かを紹介していきたいと思います。
覚猷(かくゆう)
平安時代後期の天台宗の僧侶。高僧であるにも関わらず絵画に精通し、ユニークでユーモアあふれる筆致が特徴です。
別当や大僧正を歴任するなど、天皇からも信任されたほどの実力者でしたが、いっぽう政治や仏教界の在り方を批判し、決してこびへつらうことを良しとしない人柄で知られています。
それは絵の表現にも表れていて、一見ユニークで明るい絵のようでありながら、権力へのあてつけや政治批判が込められた風刺画のような作風になっていることが特徴ですね。
定智(じょうち)
平安時代後期の画僧。覚猷の元で密教図像の収集に協力し、高野山や醍醐寺に居住して仏画制作に当たりました。
1132年落成の高野山大伝法院の壁画制作をはじめとして、「仁王経五方諸尊図」や「善女竜王図」などの代表作があります。
装飾画が主体だった同時期の仏画の中にあって、鋭い墨線を駆使して仕上げる彼の絵は、非常に特徴的なものとして評価されていますね。鳥獣人物戯画もまた墨線で描かれていますから、定智も作者の一人だったのでは?という説もあります。
義清(ぎしょう)
天台宗比叡山無動寺の画僧で、嗚呼絵(おこえ)の名手だとされています。簡略的な墨線でモデルの特徴をよくとらえた戯画を描いていたそうです。
嗚呼絵とは、平安時代から鎌倉時代にかけて流行した風刺や滑稽を目指した戯画だとされていますね。
今は昔、比叡の山の無動寺に、義清阿闍梨と云ひし僧ありき。
此の阿闍梨の書きたるは、筆はかなく立てたるやうなれども、ただ一筆に書きたるに、心地のえもいはず見ゆるは、をかしき事限りなし。
もう昔のことだが、比叡山の無動寺に義清という僧がいた。
この僧が描いた絵は、筆先は頼りないように思えるし、ただ一筆で描いたものなのに、言いようもないほど素晴らしいものだ。
今昔物語の中でも高く評価されていて、やはり鳥獣人物戯画の作者の一人ではないか?という説がありますね。
名もなき僧が描いたもの?
作者の可能性がある人物たちを何人かご紹介しましたが、謎が解けたわけではありません。
たしかに彼らの作風は、鳥獣人物戯画の筆致と一致する部分もあるのですが、本当に彼らが描いたものか?となると疑念が沸いてきます。
なぜなら覚猷はじめ定智らは、当代の著名な仏画僧です。そんな彼らが決して上質ではない反故紙(書き損じをもう一度漉いた紙)に絵を描いて残し伝えるものでしょうか?質の低い紙を使うということは、まだ実績を積んでいない画僧がデッサンのつもりで描いたものという可能性も否定できないと思います。
また、覚猷らはいずれも平安時代後期に生きた人物たちです。ですから少なくとも丙・丁巻に関しては鎌倉時代の作だと考えられるため、まぎれもなく彼らが描いたものではないでしょう。
結論として導き出されることは、名もない僧が世間を風刺して描いたもの。と考えても不思議ではありませんね。