鳥獣人物戯画はなぜ高山寺に集められた?
そして第二の謎です。鳥獣人物戯画は京都の高山寺に伝えられてきた寺宝なのですが、なぜ高山寺だけに集められたのでしょうか?その理由を探ってみたいと思います。
高山寺は明恵上人草創の寺
世界文化遺産でもある高山寺(こうさんじ)。この寺は明恵(みょうえ)上人抜きには語れないでしょう。
明恵は1173年に生まれ、8歳で父母を失うも高尾山神護寺で出家しました。その後、東大寺で華厳宗を学び、密教の伝授を受けるなどした明恵は、1206年に後鳥羽天皇から京都栂尾の地を賜って高山寺を開いたのです。
華厳宗中興の祖と呼ばれており、自然との調和を重視し、自らが見た夢を記録した「夢記(ゆめのき)」を残すなど、非常に人間味あふれる人物だったそう。
そんな明恵を慕う者も多く、たくさんの若き僧たちも彼の元に集ったことでしょう。また公家や武家など上流階級との親交も厚く、鎌倉時代の多くの文化財が高山寺に伝わっているのもそのためです。
また明恵は動物を慈しんだことでも知られ、「夢記」の中にもしばしば動物が登場します。父母を亡くした幼少の頃、子犬をまたいでしまった時に、「もしかしたら亡き父母の生まれ変わりかも知れない」と我に返り、立ち返って拝んだという逸話もありますね。
明恵が座右に置いて愛玩した子犬の木像が現存しており、愛らしいその姿は生きているかのようです。
明恵が動物好きだったから鳥獣人物戯画が収められた?
明恵は厳しい戒律と修行に明け暮れ、自分に対しては非常に厳しい人だったようです。しかしその反面、他人や動物たちにはたいへん優しく、人前ではいつも穏やかな笑みを忘れなかったそう。
そんな明恵でしたから、「動物マンガ」ともいえる鳥獣人物戯画が高山寺に収められた。という説もありますね。
また明恵の姿を描いた「明恵上人樹上坐禅像」は非常に珍しい構図の絵で、ふつう高僧の肖像画は絹に描かれますが、明恵の場合は4枚の紙を繋いだ上に描かれています。また、主人公である明恵の姿がきわめて小さいということ。その姿を隠してみると完全に山水画になるのです。彼は自然との一体を唱えていたため、自然と調和している画像として描かれたのでしょうね。
そしてよく見ると、1匹のリスが長い尾を垂らして明恵を見ています。こういったところにも動物好きな彼の性格が表れているのかも知れませんね。
人望があったゆえに僧たちが集まった高山寺
明恵は華厳宗中興の祖と呼ばれるほどですから、必然的に彼を慕う仏僧たちが多く集まったはずです。そしてその中には仏画を描いたり、絵に心得がある者も多くいたことでしょう。
鳥獣人物戯画の中でも特に「乙巻」は動物図鑑ともいえる絵のタッチですから、動物の動きや特徴など大いに参考となったはずです。
また高山寺の開山が鎌倉時代ですから、ちょうど鳥獣人物戯画の丙・丁巻の制作時期と重なりますね。もしかすると、先に甲・乙巻があって、それを参考として丙・丁巻が描かれたとすれば、理由もぴったりと符合するのです。
丙・丁巻だけにしか人間は登場しませんから、「絵巻の続きものとして、次は人物を描いてみよう」と考えても不思議ではないでしょう。
明恵の死後に寄贈されたもの?
高山寺の古文書の記録から紐解かれた、鎌倉時代中期の仁和寺門跡となった法助(ほうじょ)が所蔵していたという説があります。
法助は、摂政左大臣九条道家の五男で、太政大臣西園寺公経の娘綸子を母に持っていました。非皇族で初めて仁和寺門跡となった人物ですが、明恵が亡くなって13年忌の法要に来た時に、鳥獣人物戯画を寄贈したのではないかと推論されています。
それ以前、鳥獣人物戯画は後白河法皇のコレクション収蔵庫である蓮華王院宝蔵にあり、それが西園寺家を経由して仁和寺の法助のところへやって来たということですね。
ちなみに1570年に記録された寺目録の中には、「獣物絵上中下同類」とあり、これが鳥獣人物戯画のことではないか?といわれています。
滑稽な様子が生き生きと描かれた鳥獣人物戯画
同時代の絵巻物や絵画に描かれている人物は、なんだかのっぺりとした無表情のように見えることが多いです。しかし鳥獣人物戯画に関しては、喜怒哀楽を際立たせた登場人物の多いことが特徴だといえるでしょう。大口を開けて爆笑している姿など、本当にマンガそのものですね。もし鳥獣人物戯画を見る機会があれば、ぜひ細かい点まで注目して見て下さい。思わずクスッと笑いたくなるはず。