3-3.イギリス軍上陸と熾烈な地上戦
1982年5月21日、アルゼンチン側の航空攻撃の中、上陸作戦が開始されました。
さしたる抵抗もなく橋頭堡を確保したイギリス軍は、首都スタンレーへ向かう前にアルゼンチン軍の拠点があったグースグリーンを5月27日に夜襲する計画を建てます。
しかしここでウソのような本当の話なのですが、なんとイギリスBBC放送が「イギリス軍は今夜、グースグリーンを攻撃する予定」と放送してしまったのです。
あきれ返ったイギリス軍指揮官は「あちゃー!」という気持ちだったことでしょう。
それでも攻撃計画は変更されることはありませんでした。なぜならアルゼンチン側も「そんな情報はとても信じられない。どうせウソなんだろう。」とタカを括っていたのですから。
Ken Griffiths – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる
まともに訓練を受けていないアルゼンチン軍兵士たちでしたが、各地で熾烈な戦いが展開されました。ダーウィンヒルを突破したイギリス軍は抵抗を排除しながら前進を続け、グースグリーン飛行場でも銃撃戦が行われました。
ようやく昼頃になって霧が晴れ、航空支援が開始されたのですが、この空からの攻撃によってついにアルゼンチン軍の士気が喪失し、翌朝には1,500人のアルゼンチン軍兵士が投降したのです。
アルゼンチン軍はグースグリーンを失ったことにより、スタンレーまで後退せざるを得なくなりました。
3-4.スタンレー陥落
当時、日本の新聞やニュース番組は毎日のようにフォークランド紛争での戦況を書き立てていました。どこそこで戦いがあり、イギリス軍がどの辺まで進出したなど、マスコミの間では熾烈な報道合戦だったそうです。
ところでグースグリーンの戦いで勝利を収めたイギリス軍は、首都スタンレーへ向けて快調な進撃を続けていました。6月11日にはスタンリーの外郭防衛線を突破。さらに翌々日になると総攻撃の準備が整いました。
6月13日夜半、イギリス艦隊や砲兵隊の事前射撃の後にイギリス軍は前進を開始。易々と内郭防衛線を突破すると市街地へと迫りました。
これ以上戦っても益なしと判断したアルゼンチン軍司令官メネンデス少将は降伏を決意。戦闘停止と武装解除が行われたのです。
この2日後にはガルチェリ大統領も失脚し、2ヶ月超にもわたる無益な紛争は終わりを告げることになりました。
3-5.イギリスの功罪
ガルチェリ大統領の転落とは対照的に、サッチャー首相の評価はうなぎ上りになりました。
ややもすれば社会保障政策の失敗で人気が低迷していた彼女の支持率をアップさせ、結果的には「強い英国」を世界に印象付けたからです。
その反面、国連が問題を調停する動きがあったにも関わらず、イギリスは無視して武力行使に踏み切りました。そういった独りよがりな行動がのちに大国のスタンドプレーを許し、後の湾岸戦争や中東紛争を拡大してしまった原因となったのかも知れません。
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3-6.アルゼンチンのその後
1990年12月、イギリスとアルゼンチンは国交を回復しましたが、互いに領有権の主張を取り下げてはいません。
アルゼンチンで初の女性大統領となったキルチネルは、2010年に中南米・カリブ海地域32ヶ国首脳会議の中で、フォークランド諸島のアルゼンチン帰属を決議させました。
彼女はその後、汚職や不正蓄財の罪で起訴されるものの、2019年10月には副大統領に当選していますから、国民の間では相当人気があるのでしょう。
4.フォークランド諸島の今
フォークランド紛争が終結してから40年が経とうとしていますが、新たな領有権問題が再燃しようとしています。愚かな戦争に突き進む可能性もゼロではありません。今、この島々で何が起ころうとしているのか?最後に解説していきましょう。