イギリスヨーロッパの歴史

5分でわかる「フォークランド紛争」原因は?複雑な領土問題をわかりやすく解説

2.アルゼンチンが強引にフォークランド諸島を占領

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こうしてまんまと領土を奪われた形となったアルゼンチンですが、その歴史は国民感情に根深く闇を落とすことになりました。「イギリスは絶対に許さない!」アルゼンチン国民の誰しもが胸に秘めた思いだったことでしょう。

2-1.虎視眈々とフォークランド諸島を狙うアルゼンチン政府

第二次世界大戦が終わると世界的な独立機運が高まり、イギリスはほとんどの海外領土を失うことになりました。すなわちそれはイギリスの国力低下を招くものだったのです。

「大英帝国にかつての輝きはない」と感じ取ったアルゼンチン側は、まるでイギリスを試すかのように挑発を繰り返します。イギリスの調査船に実弾射撃をしたり、イギリス領の無人島に上陸して勝手に国旗を掲げたり。

経済が落ち込み、疲弊していくイギリスには遠く離れた海外領土を守り切る余力はありません。ソ連と西側諸国の冷戦の狭間でにあって、目を向ける余裕すらなかったのでした。

2-2.強気の姿勢を見せるガルチェリ大統領

やがて1981年、陸軍出身のガルチェリ大統領が就任します。軍人だけあってさらに強硬な手段に打って出ようとしたのです。

当時のアルゼンチン国内は経済政策の失敗によるインフレを抱えていて、社会は疲弊状態。国民の不満をそらすためには愛国心に訴えるしかありませんでした。

「マルビナス(フォークランド)諸島はわが領土!」どっかで聞いたことあるようなフレーズですが、ガルチェリはそう叫び、国民は熱狂しました。

あまりの世論の過熱ぶりに、引くに引けなくなったガルチェリはついに決断します。「マルビナスを奪還する!」

2-3.アルゼンチン軍、フォークランド諸島を無血占領

アルゼンチン海軍は、まず手始めにフォークランド諸島の南東にあるイギリス領サウスジョージア島に上陸しました。その事実に慌てたイギリスは、「もしおとなしく撤収すればなかったことにしてあげよう。」と提案したのです。

しかし、ここで撤収してしまえば国民から何を言われるかわからないガルチェリは、その提案を拒否。次の手に打って出ます。まさか次にフォークランド諸島へ上陸するとは知らないイギリス側の反応は鈍いものでした。

1982年4月1日、アルゼンチン軍がフォークランド諸島へ上陸。空港に引き続いて市街も速やかに確保しました。

そしてわずか3時間程度でイギリス側の武装解除に成功し、ほぼ無血でフォークランド諸島を占領したのです。

3.イギリス軍の反攻

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事態は単なる領土紛争に留まりませんでした。主要な国連加盟国をはじめフランスなども調停に乗り出しますが、アルゼンチン側の態度はあまりに強硬でした。それはそうでしょう。国民の熱い支持があったからこそ、ここまで強硬に事を進めてきたわけです。ここで折れてしまえば国民の支持を失うことにもなりかねません。ついにイギリス側もフォークランド諸島を奪回するべく強硬手段に打って出ることになりました。

3-1.サッチャー首相、艦隊を派遣

「鉄の女」と呼ばれたイギリス首相サッチャーの対応は素早いものでした。国連による停戦交渉の最中にも派遣部隊を編成し、空母部隊や原子力潜水艦を現地へ派遣したのです。

衰えたとはいえイギリスは伝統的に海軍力が強い国。まともに組み合えばアルゼンチン海軍に勝ち目はありません。さっそくイギリス艦隊は諸島沖に展開しました。

イギリス側は、まず手始めにアルゼンチンの巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノを撃沈。さすがに強力なイギリス艦隊ですし、このまま制海権を奪うかに見えました。

3-2.強力なエグゾセミサイルによる反撃

ところがアルゼンチン海軍は非力な水上艦艇たちを引っ込め、今度は航空攻撃に切り替えたのです。アルゼンチン空軍の攻撃機が発射したミサイルが「エグゾセ」と呼ばれる空対艦ミサイルでした。

最初のミサイルがイギリス海軍の最新鋭駆逐艦シェフィールドに命中。大火災を生じさせたうえで沈没させました。さらにこの後、イギリス側の駆逐艦やフリゲート艦、輸送船などを軒並み撃沈したのです。

海軍の運用ではイギリス海軍に一日の長がありましたが、現代戦の主役ともいえるミサイルが形成を一挙に好転させました。

この大損害にイギリス側は衝撃を受けました。しかし遠く出張ってきたイギリスは体面もあり引くに引けません。多大な損害と引き換えにしてまでも上陸作戦は成功させねばなりませんでした。

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明石則実