平安時代日本の歴史鎌倉時代

栄西が開いた「臨済宗」を元予備校講師がわかりやすく解説

臨済宗と曹洞宗の違い

日本の禅宗は栄西が中国から臨済禅を持ち帰ったことに始まります。栄西よりも後に道元が中国から曹洞禅を持ち帰りました。

禅宗において重要なのは座禅を通じて「悟り」を開くこと。自分という存在に向き合うという点は臨済宗も曹洞宗も同じです。臨済宗と曹洞宗の最大の違いは、禅に対する考え方。

臨済宗では公案とよばれる禅の問題について、考え抜くことで悟りを得ようとします。一方、曹洞宗では何も考えず、ひたすら坐禅を繰り返しました。ひたすら座禅を行うことを只管打坐(しかんたざ)といいます。

公案を主とする臨済宗の禅を看話禅、只管打坐を行う曹洞宗の禅を黙照禅といいました。両者の禅に対する考え方は大きく違いますが、目的とするところは同じだと感じますね。

他の日本の禅宗

日本における禅宗は臨済宗と曹洞宗が中心ですが、他にも禅宗の流れをくむ流派が日本にあります。

一つは普化宗。聞きなれない宗派ですが、時代劇などに登場する尺八を吹く虚無僧(こむそう)はご存知でしょうか。彼らは普化宗の僧侶たちです。彼らは深編笠をかぶり、尺八を吹きながら喜捨を求め諸国をめぐりました。

虚無僧たちは諸国をめぐるにあたって幕府の許可を得ます。しかし、江戸時代の中期以降は偽の虚無僧も横行したため、幕府によって規制されました。

明治維新後、幕府とのつながりが深いとみられた普化宗は解体されてしまいます。廃仏毀釈により普化宗の本山であった明暗寺は廃寺とされましたが、1950年に再興されました。

もう一つは江戸時代に隠元隆琦(いんげんりゅうき)によって建てられた黄檗宗。念仏と禅が融合した念仏禅を特徴とします。明治維新後に臨済宗から完全に独立しました。

臨済宗の葬儀

栄西の死後、臨済宗は細かく分けると14の宗派に分かれました。宗派によって多少の違いはありますが、葬儀の在り方はおおむね共通しています。

最初に、行われるのが仏門に入るための「授戒」。かつては亡くなった人の髪の毛をそり落としていましたが、現在は剃刀をあてて剃るそぶりをするだけにとどめます。

次に「念踊」。僧侶が読経しつつ、仏弟子となった故人がつつがなくあの世に旅立てるようにします。

最後に行うのが「引導」。よく、相手に最終的な宣告を与えることを「引導を渡す」などと表現しますが、そもそもは僧侶が故人をあの世に送ることを指す言葉でした。

臨済宗の葬儀に参列した時は、仏前への合掌、礼拝、抹香を香炉に入れる、最後に合掌する、といった手順で故人を弔いましょう。なお、香典などの作法については特に注意点はありません。

室町時代に幕府に保護され、繁栄した臨済宗

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臨済宗が飛躍的に発展したのは室町時代です。室町幕府は臨済宗を保護し、五山・十刹の制を整え、臨済宗の寺を官寺として扱いました。これにより、京都五山と鎌倉五山、その上に君臨する南禅寺という仕組みが出来上がります。また、臨済宗の僧侶の中には一休宗純や白隠慧鶴、快川紹喜といった名僧たちも登場しました。

室町幕府の保護により文化の発信源となった臨済宗寺院

1379年、室町幕府3代将軍の足利義満は、春屋妙葩を全国の禅寺を統括する僧録に任命しました。僧録は室町幕府がかかわる官寺の住職の任命権や宗派内の訴訟の裁定権を与えられます。

また、幕府や守護大名から多くの土地を寄進されました。権力の庇護を受け、経済的にも豊かになった臨済宗寺院は文化の発信源としての役割を担います。漢詩文の創作から五山文学がうまれ、義堂周信絶海中津などの文学僧が現れました。

さらに、作庭技術に優れた禅僧たちは枯山水などの庭園を作り上げます。特に、漢学の素養を持った臨済僧たちは政治・外交の顧問としても活躍しました。日宋貿易においても臨済宗の僧侶たちが活躍します。水墨画など当時最先端の美術も臨済宗の僧侶によって広められました。

鎌倉五山と京都五山

鎌倉時代、幕府執権の職を独占していた北条氏は、中国の南宋の制度に習い鎌倉に五山制度を導入しました。始まりは五代執権北条時頼の時代です。寺院をランキング付けすることで、幕府がコントロールしやすくなるというメリットがありました。

鎌倉五山の筆頭は建長寺、次に円覚寺、3位が寿福寺、4位が浄智寺、5位が浄妙寺とされました。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行ったとき、京都の寺院が鎌倉五山よりも格上とされます。

室町幕府を開いた足利尊氏や歴代の足利家当主は臨済宗を信仰したため、室町幕府の本拠地が置かれた京都にも五山制度が導入されました。

京都五山の寺格は、筆頭に天龍寺、2位が相国寺、3位が建仁寺、4位が東福寺、5位が万寿寺とされます。加えて、京都の南禅寺を鎌倉五山と京都五山の上に置くことで寺院の関係が整理され、日本の五山制度が完成しました。

ただし、この寺格は政治的な要素が強いものでした。幕府と対立した場合、寺格を下げられ寺領を没収されることもあります。代表例が義満に寺領を没収された妙心寺ですね。

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