フランツ・シュテファンの死後
1765年に、最愛の夫フランツ・シュテファンが死去します。この後自らが死去する1780年のその時まで、マリア・テレジアは喪服を脱ぐことはありませんでした。
なんだかイギリスのヴィクトリア女王との類似性も感じます。なお、ミミを偏愛したのは夫のいない寂しさを紛らわせるためだったのではないか、とも言われており、そう考えると行き過ぎた依怙贔屓も正面から非難する気は失せてしまいますね。
「女帝」と呼ばれるほどに活躍した彼女でしたが、夫のフランツ・シュテファンも彼女のよき理解者であっただけではなく、内政に優れた手腕を発揮していました。敏腕のパートナーであり、ただ一人の夫であった人物を失った痛手は、本人にしかわからないしょう。
晩年
フランツ・シュテファンの死後、息子のヨーゼフ2世が神聖ローマ皇帝を継承します。政治的なスタンスではとにかくせっかちな息子と対立することが多く、特にマリア・テレジアの反対を押し切って参加した第1回ポーランド分割は「恥ずべきこと」だと嘆きました。
マリー・アントワネットのことはミミほどではなくとも可愛がっていたため、享楽的な志向が強い末娘の行く末を非常に案じていました。その懸念は、死後に現実のものとなってしまうのですが…。
1780年11月29日。偉大なる女帝マリア・テレジア、高熱からの肺炎にて崩御。享年63歳。
女傑様だってパーフェクトではなかった
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「偉大なるマリアテレジア」のイメージは完全無欠の女傑でした。しかし、彼女のことを深く知ると、意外と戦争は強くなかったこと、良妻賢母とされる一方でけしてパーフェクトな母親ではなかった、という一面も見えてきました。とても魅力的な人物だと再確認すると同時に、オーストリアの人たちが今なお愛してやまない理由も少し理解できた気がします。
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