外交政策
戦後処理にあたり、周辺国との関係を改善する必要が出てきました。仲が悪い国々は数あれど、大切なシュレジェンを奪ったプロイセンこそが真の敵。そこで、古くは神聖ローマ皇帝位を争い、今なお小競り合いの続くフランス、ブルボン家との融和を考えます。
当時のフランス国王ルイ16世の孫である王太子に末娘のマリー・アントワネットを嫁がせることになりました。本当は姉のマリア・カロリーナが候補だったのですが、さらに上の姉、マリア・ヨーゼファが婚約中に亡くなってしまったため、玉突き事故的に候補が繰り上がっていったのです。
尚,フランスだけではなく、スペインやイタリアのブルボン家とも積極的に婚姻関係を結ぶ結婚政策をとるようになるのもこの頃。このためマリア・テレジアの血を引く子孫が数多く存在することから、アリアノール・ド・アキテーヌやヴィクトリア女王と並んで、マリアテレジアを「ヨーロッパの祖母」と呼ぶこともあります。
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3枚のペチコート作戦
シュレジェンを諦めきれなかったマリア・テレジアはプロイセンからの奪還を試みます。こうして始まったのが七年戦争です。オーストリア継承戦争の時とは異なり、フランスや大国ロシアも今度は味方となりました。
当時のロシアの皇帝は女帝・エリザベータ。フランスでルイ15世を支えていたのが愛妾のポンパドゥール夫人。そしてオーストリアのマリア・テレジア。3人の有能な女性による、プロイセン包囲網ということで「3枚のペチコート作戦」と呼ばれることになります。
因縁のフランスと手を結んだことで「外交革命」とも言われるのですが。プロイセンをあと一歩まで追い詰めたときにロシアからの裏切りがあり、結局は敗北してしまいます。
エリザベータ女帝が亡くなり、甥のピョートル3世が即位するとロシアは勝手にプロイセンと和睦。理由は、ピョートル3世がフリードリヒ2世の大ファンだったから、というとんでもないものでした。
この戦争の結果、イギリスがヨーロッパにおける影響力を強め、反対にフランスと神聖ローマ帝国の権威が下がり、パワーバランスが崩れる事態にもなりました。
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内政の改革
2度の敗戦を経験したマリア・テレジアですが内政を改革することにも力を入れます。中でも力を入れたのが幼年者への教育で、全国各地に小学校を設立し、義務教育を導入しました。教科書も配布していたというのですから、どれだけ教育に注力したのか伺えるでしょう。
信仰心が篤いマリア・テレジアでしたが、宗教が科学の発展を阻害しているという認識も同時に持っていたようです。ウィーンの大学の医学部の後ろ盾となって、死体の解剖を認めるなど、医療の発展にも寄与しています。
軍備の面でも徴兵制を整えました。兵士たちに一方的に奉仕させるのではなく、きちんと給与を与えることで生活水準を引き上げ、国民の生活を安定させる役割も果たしたのです。
家庭人としてのマリア・テレジア
マルティン・ファン・マイテンス – [1], パブリック・ドメイン, リンクによる
オーストリアの宮廷はのびのびと家庭的で、フランスに嫁いだマリー・アントワネットはその窮屈さに閉口した、というエピソードが伝わっています。マリア・テレジアが築いた家庭はどのようなものだったのか、少し覗いてみましょう。
母として
マリア・テレジアは16人子どもを産みました。何人か結婚適齢期を迎える前に亡くなってしまいましたが、当時としても多産です。
母親としての愛情は持っていたようですが、どうやら依怙贔屓するきらいがあったようですね。次女(実質長女)マリア・アンナには特に冷たく当たっていました。性格が内気で、その上病気で背中が曲がっていたため政略結婚の駒として役に立たなかったからだと言われています。その上弟のヨーゼフよりも才覚があったようで、彼女をさらに疎ましく思っていた節もあり、何とも不遇な皇女様ですよね。
逆に溺愛していたのはマリア・クリスティーネ(愛称ミミ)。彼女だけは政略結婚の駒とすることはなく、自身と同様に恋愛結婚を認めています。しかし、このことが原因で兄弟姉妹からは大層妬まれ、マリア・テレジアの死後は冷遇されることになるのです。