日本の歴史江戸時代

腐敗政治にNO!正義感が強すぎるゆえに起こった「大塩平八郎の乱」とは?

「大塩平八郎の乱」勃発!

大坂西町奉行所へ赴任してきた堀伊賀守と、跡部山城守の巡検が2月19日に決まったことが門弟の瀬田斉之助から知らされます。そして午後4時頃に東町奉行所与力の朝岡助之丞宅に立ち寄ると想定。まずは跡部・堀の両名を討つべく決起を決定しました。

それ以前に平八郎は各方面への檄文を書き上げています。その文面を版木で彫らせて大量に作った檄文を摂津、河内、和泉、播磨などの村役人に送って同調を促したのです。その檄文の内容を一部ご紹介しますね。

 

此度有志の者と申合せ下民を脳し苦め候諸役人を誅殺いたし、引続驕に長し居候大坂市中之金持町人を誅戦に及可申間右之者共穴蔵ニ貯置候、金銀銭等蔵屋敷ニ隠置候俵米、夫々分散し配当致遣候間、摂・河・泉・播の内畑所持不致者、たとへ所持致候共、父母妻子共養方出来かたく程の難渋の者ハ右金米取せ遣候間。いつにても大坂市中騒動起り候と聞伝へ候ハヽ里数いとハす一刻も早く大坂へ馳来り面々右之米金を分遣し可申候。

引用元 「大塩平八郎のこと―三木家文書より―」

現代訳

此のたび有志の者と申し合わせ、下々の民を悩まし苦しめている諸役人を誅伐した上、引続いて大坂市中の金持ち、豪商を打ち壊している間、右の者共は蔵に貯めておいた金・銀・銭などや蔵屋敷に隠し置いておいた俵米を分け与えて配当し、摂津、河内、和泉、播磨ののうち、畑を所持していない者や所持している者、父母妻子等を養うことができない程の貧しい者は、右の金や米を分配するので、いつでも大坂市中に騒動が起ったと聞いた時点で巨富をいとわず一刻も早く大坂へ馳せ参じ来たった者どもには右の金や米を分配こととする。

 

ところが2月18日、同士や門弟の密告で計画が事前に漏れたため、準備が整わないまま予定を大幅に早め、翌日午前8時に決起するしかなくなりました。「救民」と染め抜かれた旗を掲げて進む一団には、途中から檄文を受けた農民や町民たちが加わり、300人ほどにまで膨れ上がったのです。

次々に豪商を襲い、金品を分け与えつつ大坂城まで進軍を続けようとしますが、奉行所側によって阻止され、その後一気に蹴散らされた挙句、蜂起してからわずか8時間で鎮圧されてしまいました。尼崎・高槻・岸和田藩などの藩兵も出動していたようです。

「大塩焼け」と呼ばれる大火災によって大坂市街は多くが被害を受け、実に1/5が焼失してしまったとのこと。しかし被害を受けたはずの市民の多くは平八郎のことを悪く言う者はおらず、平八郎がいかに慕われていたのかがよくわかります。

「大塩平八郎の乱」のその後

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大坂市街の多くを焼失させた「大塩平八郎の乱」ですが、平八郎が訴えたかったことは聞き届けられたのでしょうか。乱後の顛末を見ていきたいと思います。

各所へ潜伏するも最後は自害

乱を起こすものの奉行所側に一蹴され散り散りになった大塩勢ですが、首謀者の平八郎親子は捕縛されず、その行方は杳としてわかりませんでした。

現在の東大阪市枚岡あたりに潜伏していたともいわれていますね。また、幕閣へ送った書簡も結局は届くことがありませんでした。こうした状況に再起を図りたかったのでしょうか。平八郎は再び大坂へ戻り、旧知の染物屋三吉屋五郎兵衛宅へ匿われました。

ところが五郎兵衛宅の女中が「神棚用に食膳を二膳用意しているのに、いつも空のまま返ってくるのはおかしい。」と話していたのを村役人が聞きとがめ、平八郎の居場所が露見してしまったのです。

3月27日、奉行所側に攻め込まれた平八郎、格之助親子は火薬を使って自ら爆死してしまいました。首謀者死亡のまま遺体は塩漬けにされ、乱の参加者は家族にいたるまで750人ほどが処罰され、首謀者20人は磔の刑に処せられるなど厳しい沙汰が下されました。塩漬けにされた平八郎親子の遺体もこの時に磔にされたそうです。

幕府を震撼させた反乱だった「大塩平八郎の乱」

反乱の規模として大したものではありませんでしたが、幕府へ与えた衝撃は大きなものがありました。農民による一揆などではなく、幕府直属の元与力が首謀者で、しかも将軍家第二のお膝元である大坂で起こったことが問題だったのです。

「腐敗した幕府政治に鉄槌を下す」ことをスローガンとした平八郎の理念は、後に続く者たちによって具現化されていきました。それが幕末~明治にかけて頻発した【世直し一揆】であり、【地租改正反対一揆】でもあったのです。そして多くの幕末の志士たちが陽明学に影響を受けて行動原理としていました。

かの吉田松陰も平八郎の著作を評価していますし、西郷隆盛の人格を形成したのは陽明学であり、大塩平八郎の思想的影響をかなり受けていたそうです。近年では三島由紀夫が自らの思想を語る上で、陽明学と大塩平八郎に注目していました。

平八郎のような自分にも他人にも厳しく、生真面目で正義感の強いところが日本人の気質に合致しているのでしょうね。彼の目的は完遂されることはありませんでしたが、その志は長く生き続けているのではないでしょうか。

平八郎が信奉した「陽明学」が今こそ必要?

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「陽明学」という学問は、物事を一辺通りに見るだけでなく、様々な角度から批判や評価を加えることによって俯瞰的な見地から物事を判断できます。これを政治に置き換えれば、より柔軟でフレキシブルな政策が構築できるのではないでしょうか。しかし為政者側からすればたまったものではありません。なぜなら為政者の都合が良いようには決してならないからですね。しかしこれまで日本の政治不信などを経験してきた人間からすると、もしかしたら大塩平八郎が熱心に研究した「陽明学」を、今の政治にも取り入れたらどうだろうか?という気にすらなってきますね。民主主義とは、様々な立場の人たちが参画するからこそ、より良い政治が可能だからです。

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明石則実