難聴との戦い
ベートーヴェンは20代から難聴に苦しめられていました。音を認識し、楽曲を作成・演奏する音楽家にとって商売道具ともいえる聴覚に障害を持つことは非常に大きなハンディキャップです。
難聴の原因は、幼少期のスパルタ教育によって父から殴られたことが原因とも、食品に含まれる鉛が原因の鉛中毒、あるいは母親から感染する先天性梅毒だったともいわれますが、正確なことはわかっていません。
1802年、ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書きました。ハイリゲンシュタットで甥のカールと弟のヨハンにあてて書いた手紙で、日々悪化する難聴への絶望と難病克服への願いなどがつづられています。
ベートーヴェンは自殺すら考えていたかもしれませんが、音楽に対する強い情熱と執念で自殺を思いとどまり、音楽家としての人生を邁進しました。
音楽家としての成熟
難聴と戦い、人間としても成長していったベートーヴェン。次第に素晴らしい作品を世に送り出すようになります。最初はハイドンやモーツァルトの楽曲に強い影響を受けた作風でしたが、ハイリゲンシュタットの遺書の後、ソナタ形式の確立など革新的な手法を次々とあみ出しました。
古典派独特の美しさ、様式美に加えて次の時代のロマン主義でクローズアップされる感情を重視した音楽がベートーヴェンの手によって融合されます。
暗さ・重さから明るさへ、苦悩から歓喜へというドラマチックな展開はベートーベン以後の作曲家たちにも受け継がれました。
音楽家として十分に成熟した最晩年には、バッハの時代に確立されていたポリフォニー(多声音楽)を研究することで音楽の厚みを増すことに成功。古典主義音楽を大成させました。
ベートーヴェンの代表作
古典派音楽を大成させたベートーヴェンは、多くの有名作品を残しました。ベートーヴェンが書いた9つ交響曲のうち、最も有名なのは「運命」でしょう。最後に作曲した「第九」こと交響曲第9番は合唱つきが良く演奏されます。ピアノの名曲として知られるのが三大ピアノソナタ。ともに美しい旋律で現在も多くの聴衆を魅了し続けています。
交響曲第5番「運命」
交響曲第5番ハ短調 作品67は「運命」の通称でよく知られる楽曲。「運命」の名は、ベートーベンの弟子の一人であるシンドラーが「冒頭の4つの音」、しばしば「ジャジャジャジャーン」などと表記されるあの音ですね。
この4音が何を意味しているかとベートーヴェンに尋ねたところ「このように運命は扉を叩く」と答えたとされるエピソードに由来します。エピソードの真偽はともかく、この楽曲にとてもあった話なので広く流布したのでしょう。
交響曲第5番は、交響曲第6番の「田園」と同じ日に初演されました。初演は1808年、ナポレオン戦争の真最中。
初演のコンサートでは二つの交響曲を演奏するため、この演奏会は長時間にわたり演奏者も聴衆も体力を大きく消耗したことでしょう。
初演こそ、評価は今一つでしたが、徐々に評価が高まり今ではベートーヴェンの代表作といわれるようになりました。
交響曲第9番「第九」
日本では「第九」の愛称で知られるのがベートーヴェン最後の交響曲である交響曲第9番ニ短調 作品125。特に有名なのが第四楽章です。第四楽章はゲーテと並ぶドイツの詩人シラーの詩である「歓喜に寄す」を歌詞に用いた合唱パートで知られていますね。
「歓喜の歌」は現代ヨーロッパでも重要視され、ヨーロッパ全体を称える「欧州の歌」と定められました。
ベートーヴェンがシラーの「歓喜に寄す」に出会ったのは1792年のこと。作曲が始まったのはナポレオン戦争後の1815年です。1824年、交響曲第九番の初稿が完成し一般に楽譜が出版されたのは1826年のことでした。
以来、「第九」はドイツだけではなく世界各国で歌われてきました。ヘルベルト・フォン・カラヤン、クラウディオ・アバド、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど名だたる名指揮者たちも指揮棒をふるいます。
1989年にベルリンの壁が包囲した時、レナード・バーンスタインはドイツ分断の当事国であるアメリカ・イギリス・フランス・ソ連のメンバーとともに「第九」を演奏しました。
三大ピアノソナタ
ベートーベンの三大ピアノソナタといえば、ピアノソナタ第8番ハ短調 作品13の「悲愴」、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 「幻想曲風ソナタ」、通称「月光ソナタ」、ピアノソナタ第23番ヘ短調 作品57の「熱情」の3つをさします。
その曲も非常に人気が高く、甲乙つけがたい魅力を持っていますね。「悲愴」は初期、「月光」は中期、「熱情」は中期から後期にかけての名曲です。
1798年から1799年にかけて作曲された「悲愴」は高く評価され、楽譜も大いに売れました。「月光」の名の由来はベートーヴェンの死後、詩人のレルシュタープが第一楽章のメロディーを「(スイスの)ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟」のようだとたとえたことから人口に膾炙したようです。
「熱情」が書かれたのは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたのちのことで、ベートーベンが難聴と戦っていたころでした。「熱情」の第三楽章は激しい思いを鍵盤にぶつけたかのような怒涛の展開で、ロマン派の楽曲を思わせますね。