光太夫たちがロシアにとって「好都合」だった理由
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ロシアの、いえ世界史の歴史年表を知っている人にとって「18世紀末ごろ」がどんな時期か?そう、フランス革命の嵐です。このクソ忙しい時期に、たかが一介の商人を相手にしたロシア政府はすごい!時のロシア皇帝はロシア史上最高級の英君・女帝エカテリーナ2世。超マルチタスクに国政を切り盛りする女帝が光太夫たちに見出した、外交的意義とは一体?
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近くて遠い日本!「通商できたらロシアの大きな利益となる」
「なんか近いっぽい」「ステキな産物がたくさんあるらしい」未知の国日本。実際にロシア領から日本は非常に近い地理関係です。ロシアのみならず、日本との交易は西洋諸国にとって「できたらやりたい事案」でした。これをペリーが打ち破るにはあと約60年の時をまたぐ必要があるのですが……。
それまで日本語学校を運営していたのも、結局は日本との通商を見据えた政策。期は熟した……エカチェリーナ2世は国益のためならなんでも成し遂げるパワフル女帝でした。これで日本と交易できるようになれば、ロシアをさらに豊かに強くできる!そのためにはこんな作戦を取ろう――「漂流民を返還しにきたついでに、通商の交渉を決行する」と。
ラクスマンは自身の科学アカデミー会員としての社会的立場と政界のツテを手繰ってたぐって、ある段階までこぎつけます。大黒屋光太夫はロシア皇帝エカチェリーナ2世――つまり将軍様や天皇陛下と同じくらいスゴイ人と、対面することになったのです。謁見して勅命を得るために。漂流開始から8年以上が経過していました。
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「大帝」エカテリーナとの出逢い
女帝エカチェリーナ(エカテリーナ)2世。ロシア史で「大帝」と呼ばれるのは、ピョートル大帝、そしてこのエカテリーナ2世のみ。ドイツの小さな領邦国家からお嫁入りしてきた彼女は、強い使命感をもってロシア皇帝家とロシアに尽くします。エカチェリーナは無能で国を弱体化させる夫を暗殺して帝位をゲット、絶大なカリスマ性と実行力、啓蒙君主と独裁者という2つの顔を併せ持つ清濁併せ呑む処世術で、ロシア帝国を強国とした英君です。
この頃フランス革命、ナポレオン戦争などヨーロッパを、特に帝政や王政の基盤を揺るがす事象が巻き起こっていました。超マルチタスクで激務をこなし、夜はイケメン年下家臣を寵愛し、領土を拡張し……こんな人が「国益になりそうなもの」に対して無関心になるわけもありません!
大黒屋光太夫はそんなエカチェリーナ2世に、避暑地ツァールスコエ・セローで謁見します。女帝は彼の苦難の物語を涙を浮かべて聞きました。とはいえそのウラにはきちんと冷徹な計算が働いていました。「漂流民返還と引き換えに、日本と通商条約を結ぶ」――大黒屋光太夫たちとロシアの利害が一致したのです。
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日本への帰還、光太夫の果たした役割とは?
Anonymous Japanese painting 1792 – [1], CC 表示-継承 3.0, リンクによる
大黒屋光太夫たちはついに帰国します。しかし日本へ帰還したそのとき、すでにメンバーは光太夫を含めて3人にまで減っていました。光太夫、最年少の磯吉、そして小市――彼らを最後に待ち受けていたものとは?そして一介の漂流民・大黒屋光太夫の政治的・世界史的意義とは何だったのでしょう?大黒屋光太夫の漂流記、ついに完結です。
慎重派の遣日大使、北海道(蝦夷地)へ!
キリル・ラクスマンは、みずからの次男アダムを遣日大使として送り出しました。若くとも慎重派のアダム・ラクスマンはまず蝦夷地(北海道)松前藩の根室港を目指します。江戸でも長崎でもなく、ロシア領から一番近い蝦夷地へ。日本の年号はいつしか「寛政」と変わっていました。もちろんヘンテコなでかい船から金髪碧眼のヘンテコな人たちがやってきたので、現場は大混乱。
一番動揺したのは、日本の中央政府たる江戸幕府。時の老中は「寛政の改革」とセットでみんな覚えた、あの松平定信でした。諸藩から弱腰に見られる事態は避けたい、それに「権現様のお決めになった鎖国の法」(実際は3代将軍家光からですが江戸幕府が成立してから200年くらい経ったこの頃はそんなイメージ)を破るわけにはいかない、しかしロシアはすごい国らしい……。ついに出した結論は、なんと。
「先送り」です!今はムリだから、もうちょっとしたら長崎に来てネ、と言ったのです。その証拠としてきちんと許可証を与えて、アダム・ラクスマンもこれ以上ゴリ押しはできないと判断して交渉はお開き。外交的な成果はここまで。この許可証はその後、高田屋嘉兵衛とレザノフ事件につながるのですが……それはまた別の物語。
しかし最高の成果は、光太夫たち漂流民の返還が実現したこと。光太夫たちはついに正式に日本に帰ってきたのです。しかし3人生き残っていたうちの1人は気の緩みもあってか栄養失調で亡くなり、大黒屋光太夫と最年少の磯吉の2人だけとなってしまいました。伊勢湾沖で漂流をはじめたあの冬の嵐の日から10年が経っていました。
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