日本の歴史江戸時代

「大黒屋光太夫」はただの漂流民じゃなかった?ロシア帝国エカテリーナ女帝に謁見した鎖国時代の日本人

大黒屋光太夫一行のその後

海の外を見てきた、女帝と謁見してきた、しかもキリシタンじゃない、海外経験豊富な日本人。こんな人材、日本にとってもオイシイに決まっています!西洋を毛嫌いする人びとがいる一方で、彼を見逃さない人びとがいました。外国の学問を渇望し、さらなる医術や学術の発展をのぞむ蘭学者たちです。特に光太夫は自らの体験や知識を日本の蘭学者たちとシェアし、日本の発展に寄与しました。

この「ロシア以後」の光太夫たちの処遇は諸説ありました。危険人物として座敷牢同然の飼い殺し……囚人のように虐げられて生涯を終えた。そんな説が一昔前までは主流だったのですが、最近見つかった史料によって、比較的自由に暮らしていたことが判明しています。江戸幕府お偉方の審問が終わったあとは、小石川植物園に家を与えられて暮らしはじめたのです。光太夫は漂流する前、妻を持っていましたが、長い歳月のあいだに亡くなってしまっていました。そんな彼もこの小石川植物園で暮らすようになって知り合った女性を2番目の妻とし、2人の子供を設けます。

蘭学者たちの集いに招かれて出席したり、逆に蘭学者が小石川植物園を訪ねてきて、歓談したり。わりとユルく過ごしていたんですね。彼の漂流記を蘭学者の桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)が聞き書きをして著した『北槎聞略』はその後の日本の外交政策などに大きな影響を及ぼしました。そして彼はそんな暮らしの中で一度、たしかに伊勢に帰還していたことが新史料によって確認されています。大黒屋光太夫は1828年(文政11年)に江戸で静かに眠りにつきました。

不屈の意志で帰国を果たした、行動派のリーダー

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大黒屋光太夫の物語を見るにつけ、いくつもの奇跡が重なっていたと感じざるをえません。ラクスマンに出逢っていなかったら……時の皇帝がエカチェリーナ二世ではなかったら……リーダーが大黒屋光太夫ではなかったら。歯車が1つ違ったら帰国は実現しなかったかもしれません。1人の漂流民の不屈の意志と信念と行動力が、故郷へ帰ることを実現させました。そしてロシアと日本を国際的につなぐ要素として、大黒屋光太夫の名は世界史に残ることとなったのです。光太夫は果たして故郷の伊勢の大地に立ったとき、何を思ったのでしょうか。

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