米の小売価格が高騰し、好景気の恩恵のない地方の農村などが疲弊
この米価格の高騰は、地方の農村などの貧しい暮らしを強いられていた家庭を直撃しました。米価の高騰は仲買商人たちによる買い占めで生じていたため、米を生産する小作農の収入には結びついていません。そのため、彼らや一般庶民は家計費の急騰に直面していたのです。
とくに、富山県の魚津(今の魚津市)には、当時シベリアに向けて米を輸送するための拠点港になっていたため、米屋の倉庫には大量の米が積み上げられていました。
魚津の主婦の怒りが頂点に達したときに、きっかけが起こった
米の値段が高騰しているにも関わらず、魚津の米屋の倉庫にはシベリア出兵用の大量の米が集められていることが地元の主婦らに知られるようになったのです。その情報を知った米が高くて買えない地元の主婦たちは、米屋に抗議をおこなうようになり、多くの市民が集まりました。地元の警察はその動きを聞き付けると集まった市民たちを解散させますが、すぐにまた多くの市民が集まってくるようになったのです。これを、地元の富山日報や高岡新報などの新聞社が記事にしたことで、抗議運動はいっそう拡大していきました。
米騒動が始まり、それは全国に飛び火していった
最初、7月上旬には主婦が25~26人程度が米の積み出しの停止を要求する小規模なものでしたが、7月22日には200人以上に膨らみ、抗議は市役所にも及びました。そして、8月に入ると、抗議運動は一揆の様相を呈し始め、富山県内全体に及んでいったのです。米の搬出をしていた十二銀行(現在の北陸銀行)には抗議行動が連日繰り返され、暴動につながった動きは1,000人を越える規模になっていました。その中でついに警察とデモ隊の衝突が起こり、その記事は地元に限らず、全国新聞でもとりあげられるに至ったのです。
米騒動は全国的な広がりをみせた
富山から騒動は全国各地でおこなわれるようになります。米騒動の騒ぎは全国各地に飛び火し、名古屋や京都、東京などでも多くの群衆が集まり、騒動に発展していきました。さらにその騒動は、福岡や山口の炭鉱にも及び、数千人規模の炭鉱夫たちが米問屋、遊郭などへの打ち壊しや放火がおこなわれるようになったのです。そのため、軍隊が出動する事態に発展してしまいました。軍隊は発砲し、それに対して炭鉱夫たちはダイナマイトまで使うという混乱した状況に陥ったのです。
これらの一連の騒動で、死者が2名出て、検挙者は25,000人を越えてしまいました。
富山の米騒動は大手新聞に取り上げられ、全国の一般庶民が同調
その規模、暴動もエスカレートするようになり、暴動を阻止するために軍隊が出動して鎮圧をおこなった結果、寺内内閣に対する批判が新聞記事などの報道を中心に高まりました。
これらの事態に対して、政府は各都道府県で米の安売りを実施させたものの、早々に打ち切ったために、米価は年末まで高騰した状態で推移してしまったのです。
しかし、その最中にも景気そのものは好調を維持し、一般庶民の実質収入が上昇したことから、それ以上には騒動は拡がらなかったのは幸いでした。でも、この騒動によってこの年の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)は中止に追い込まれています。
米騒動は内閣批判となり、寺内内閣は総辞職をせざるを得なくなる
米価が高騰したことで起こったこの米騒動に対して、政府は軍隊の出動や死者まで発生させたてしまいました。これに対して、新聞各社や世論の強い批判を受け、寺内内閣は総辞職に追い込まれてしまったのです。